Up 教授法の閑却 作成: 2013-08-20
更新: 2013-09-04


    「形式陶冶説批判」は,学校教育改造の歴史の一事項である。
    これが成したこと/成し得たことは,学校教育のオルターナティブのあること/あり得ることを学校教育界にはっきりと印象づけたということである。

    ここで,「印象づけた」程度の表現にとどまるのは,まだ教授法をもっていなかったからである。
    教授原理は立てたが,それに応じる教授法はもっていなかったということである。
    実際,いまの教授法は,その当時の教材をおもえば,ずいぶんと進歩している。
    そして,いまの地点から当時を見れば,「まだ教授法をもっていなかった」になるわけである。

    「形式陶冶説批判」は,当時の学校数学を「あまりに抽象的・論理的・形式的」のようなことばで論難した。 しかし,わたしが学校数学を数学に基づかせるとき,この学校数学は「あまりに抽象的・論理的・形式的」のようなことばで論難されるものにはならない。
    なぜなら,わたしは数学の教授法を知っているからである。

    数学の出自は,卑近である。
    形式に意味を与えるものは,これの出自になる卑近である。
    ひとは,意味を理解して形式を理解する。
    数学の教授は,生徒のうえにこれを実現することである。

    形式陶冶説批判が批判した「あまりに抽象的・論理的・形式的」な学校数学は,いまも大学の数学専門コースにおいてふつうに見られるものである。
    あまりに抽象的・論理的・形式的」なのは,「形式陶冶」を主義にしているからではない。
    単に,数学はどう教えるべきかを知らないのである。