Up 「現成」観取,そして現成論へ 作成: 2014-06-29
更新: 2014-07-01


    学校数学の実践は,学校数学に対するつぎの当て込み (決め込み) を以てする:
      1. 意味をもつ
      2. 出口をもつ
      3. 是非がある
      4. 進歩する
    しかし,学校数学を虚心坦懐に観察すれば,学校数学のつぎの事実を見て取ることになる:
      1. 意味を述べられない
      2. 出口論は,出力の検証を想定していない
      3.「是」として行われていることは,多様でしばしば対立的
      4. 進歩していない
    学校数学はむしろこんなふうである:
      1.「意味」と無縁
      2.「出口」と無縁
      3.「是非」と無縁
      4.「進歩」と無縁

    これはどういうことか?
    学校数学現前の理は,意味・出口・是非・進歩とは別のところにある,ということである。

    学校数学に対するこの捉えは,実践論に反照する。
    個の「する」を飲み込んで無にするような,系の「なる」が,浮かび上がってくるからである。
    実践の意味は?」となるわけである。

    この問題構造は,「する」と「なる」の同時性である。
    「開く」と「閉じている」の同時性,「自由」と「定まっている」の同時性である。
    構造は,矛盾構造めいてくる。

    この一見矛盾構造が,「現成」のことばを用いて本論考が主題にしようとするものである。
    「現成」のことばの趣意は「現即是成 成即是現」であるが,この意味は論が進むにつれ明らかになる。

    ただ,先回りして言うと,多様な個の多様な「する」の均衡が「なる」である。
    その「する」は,<生きる>に言い換えられる。
    学校数学現前の理は意味・出口・是非・進歩とは別のところにあると述べたが,<生きる>がその理である。