Up 学校数学の「進歩」とは? 作成: 2013-01-04
更新: 2014-02-20


    学校数学の内容は,学校仕様の数学である。
    これを教えることが,学校数学の授業をするということである。
    そこで,学校数学の進歩は,《数学を教える》の進歩である。

    しかし実際のところ,<教える>をやると授業が保(も)たない。
    即ち,生徒が授業から脱けていく。

    <教える>に進めば学校数学は壊れる。
    これは,<教える>が,系の条件──特に,自身の<生きる>の条件──に対する背理だということである。
    翻って,学校数学が現前し壊れずにいるということは,学校数学が<教える>に進むことはないということである。

     註 : 学校数学の王道は,<教える>である。
    そして「王道」のことばを用いるのは,それが実行不可能な道だからである。


    実際,授業者は,授業を保たせることに優先度を最も高く措く者である。
    そこで,<教える>に換わるものを考える。
    <遊ばせる>が,これになる。

    <遊ばせる>とは?
    <教える>と<遊ばせる>の区別は,機能的には《学習活動を数学的主題に回収》の有無である。

    例えば,「AとBはどちらが大きい?」を,生徒の「興味・関心」に仕立て,そして生徒を「AとBはどちらが大きい?」の解を求める学習活動に入らせたとする。
    <教える>だと,この学習活動には数学的主題への回収が続く。
    即ち,つぎのようになる:
      この問題の解を求める過程で,一つの見方・考え方「P」に到達した。
      「P」が,実は今日の授業の主題である。
      君たちに課した作業は,「P」に到達するための方便であった。
      実際,問題の解はAであったが,解自体はどうでもよいものである。
      そこでこれより,他の例・いろいろな例で,「P」を練習してみることにする。
      「P」を観ることとこれを身につけることは,まったく違うことであるからだ。
      身につけるためには,練習がいっぱい必要になる。

    一方,<遊ばせる>は,つぎのようになる:
      問題の解はAでした。
      一件落着。
      そして,ちょうど終わりの時間になりました。
    ただし,授業者の思いでは,この授業は「P」の授業である。
    この授業者は,つぎのように考える者である:
      《授業の中で「P」を言っていないが,
       生徒はこの授業で「P」を学習している。》
    即ち,つぎのようには考えない者である:
      《「P」を観ることとこれを身につけることは,まったく違う。
       身につけるためには,練習がいっぱい必要。》