Up はじめに 作成: 2009-09-08
更新: 2012-12-01


    われわれの社会では,「数学の勉強」は,個人にとって所与 (=惰性) として存在する。

    一般に,ひとは所与に対しては「何か?何のためか?」の問いを起こさない。
    内容についての問いや「いかに行うか?」の問いが,専らになる。
    一方,ひとは,所与に矛盾や不具合を感じることになる。
    そしてこの感じが昂じるとき,ひとは「何か?何のためか?」の問いを起こす。

    「数学の勉強」も,これと同様である。
    矛盾や不具合を感じるようになったところで,「数学の勉強は何のため?」の問いが起こる。

    数学の勉強は何のため?」の問いは,「数学の勉強」が自主的・主体的なものであれば,これ自体を「数学の勉強」の中に含めるようにして,自身にこれを向けるものになる。
    しかし,「数学の勉強」が学校数学の勉強の場合だと,他者が自分に勉強を課す格好のものであるから,「数学の勉強は何のため?」は他に対し強く不条理/不本意を訴える構えのものになる。

    「数学の勉強」は,つぎのように合理化される:
      「数学の力がこの先必要になる」
      「個人の成長に与る勉強のうちで,数学の勉強はプライオリティの高いものである」
    しかしこのことは,証されてはいない。
    ここで「証す」とは,論述を以て証すということである。

    実際,この論述をつくることは,難題である。
    数学の勉強は何のため?」の答えをつくることができないため,この問いに対しては,消極的閑却で応じるふうになる。 「数学の勉強は何のため?」を問われれば答えに窮するという体(てい)に,自ら甘んじるふうになる。

    そこで本論考を以て,「数学の勉強は何のため?」の答えをつくろうとする。


    本論考は,自ずと,「学校数学の勉強は何のため?」の答えを併せてつくることになる。
    以下が,その理由である。

    「数学の勉強」を考えることは,対比的に,学校数学の勉強を考えることである。
    実際,一般者の「数学の勉強」は,学校数学の勉強である。
    そして,学校数学の勉強は,「何でもあり」が現前である。
    このとき,つぎの問題が生じる:
      学校数学の勉強は,数学の勉強か?
      学校数学の勉強は,いかなる意味で数学の勉強か?

    また,学校数学は,「数学の勉強の目的」の趣きで,「数学の勉強は何のため?」の答えを発信するところである。 そしてこれは,<見掛けの答え>である。
    すなわち,学校数学は,《数学の勉強の目的が新しい装いで立てられ,この目的達成のムーブメントが起こる》を自身の活性にしている。
    「数学の勉強の目的」は,学校数学の系の活性を生む (「景気をよくする」) ことが,意義である。

      強調するが,「数学の勉強の目的」は,学校数学の系の「景気をよくする」ことが意義である。
      実際,ムーブメントは,系の攪乱であり,功罪相半ばである。
      プラスマイナスをつくり,プラスマイナス・ゼロになって,終わる。
      ムーブメントは,成果を示すことなくいつの間にか消えていくのが常である。
      そして,新たな装いのムーブメントが起こる。
      これが繰り返される。

    学校数学が発する「数学の勉強の目的」は,「数学の勉強は何のため?」の答えを事実上支配している。 しかもそれは,<見掛けの答え>である。
    本論考が「数学の勉強は何のため?」の答えとして探求しようとするのは,<根柢的な答え>である。
    <根柢的な答え>の探求は,学校数学が発する「数学の勉強の目的」を,<見掛けの答え>として,対比的に取り上げるものになる。