Up 「社会の要求」に対し線引き 作成: 2013-06-23
更新: 2013-06-23


    学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる/発する主体に,つぎの2通りがある:
     
    1. 勉強の当事者である個人 (生徒)
    2. 学校数学の成果を回収する組織 (国,社会,経済団体等々)
    個人は,勉強の意味/理由不明から,「学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる。
    組織は,組織の論理を「学校数学に対する社会の要求」の形に仕立てるとき,「学校数学の勉強は何のため?」の問いを立てる。

    「社会の要求」は,道具主義と同じく,教育の裾野主義になる。
    実際,「社会の要求」は,これに応えない/応えられない者を多数現す。
    そしてこの<多数>は,<学校数学が無駄になってしまう者>の<多数>である。

    一方,個人は,自分が属する組織の論理 (「社会の要求」) に自らを従わせる。
    生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」は,組織の論理の「「学校数学の勉強は何のため?」にはぐらかされ,散らされる。

    本論考は,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」を保持して,これの答えづくりを主題化する。



     註1: 「社会の要求」は,学校数学を改革主義で考えるスタンスになる。
    改革主義とは,つぎのものである:
     現状をこのように改めるために,
     学校数学はこのように改めることが必要。

     註2: 経済主義は,「社会の要求」を立てる組織の論理の一例である。
    経済主義の「学校数学の勉強は何のため?」は,つぎのようになる:
     われわれの生きる場は経済社会であるが,学校数学はここで生き残るための競争力を養う。
    経済主義は,学校数学目的論の主流の要素である。
    学校数学目的論の主流とは,つぎの流れに現されているところの学校数学目的論である:
      「数学的考え方」→「数学的問題解決」→「数学的リテラシー」
    社会をリードするものが,教育もリードする。 それは,経済主義である。
    経済主義の考える教育は,競争力陶冶である。
    今日では,その競争力は「グローバル社会で勝ち抜いていく競争力」である。
    「数学的リテラシー」は,この競争力陶冶を謳うものである。 それは,OECD PISA の経済主義と連携している。
    経済主義に問われるのは,教育の普遍的意味の閑却である:
      「競争力が,教育の考える<個の自己実現>の形なのか?