Up 本論考の構成 作成: 2011-09-03
更新: 2012-12-11


    本論考は,以下の構成になる。

    1. 「数学の勉強」は,一通りでない

    個人にとって「数学の勉強」は,先ず学校数学の勉強である。 この学校数学の勉強は,数学の勉強であるわけではない。 「数学の勉強」には,学校数学の勉強と区別される数学の勉強がある。
    学校数学の勉強は,「何でもあり」を現す。 即ち,学校数学は,現前においても考え方においても,多様である。
    学校数学の勉強と区別される数学の勉強の方も,多様である。


    2. 「無用の数学の勉強」

    数学の勉強は何のため?」の問いは,先ず「勉強した数学は使うことになるのか?」の問いである。

    一般者の「数学の勉強」は,勉強した内容を使うようにならないものである。
    勉強した内容を使うようにならないのが,一般者の「数学の勉強」である。
    この一般者の「数学の勉強」に対し,「数学の勉強は何のため?」を主題化する。
    本論考が立てる「数学の勉強は何のため?」の問いは,「無用の数学の勉強は何のため?」である。


    3. 「勉強等価」

    本論考が立てる「数学の勉強は何のため?」の問いは「無用の数学の勉強は何のため?」であるが,「無用の数学の勉強」も,内容において一通りでない。 よって,「数学の勉強」の内容を多様にしたまま「数学の勉強は何のため?」の問いを立てられるのかが,論点になる。

    この論点に対する本論考の方法は,《「何のため」が同じになることの立論を以て,論点を収める》というものである。
    「何のため」が同じになるとは,「勉強等価」ということである。
    本論考は,「勉強等価」を立論しようとする。

    「勉強等価」の意味は,「勉強の結果が,同一の内容」ではない
    あることの勉強は,他のことの勉強をしてないことである。
    あることの勉強は,一つの<得失>を選んでいることである。
    <得失>は,得と失が相殺してゼロになる。
    どの<得失>もイコール・ゼロであること,これを本論考は「勉強等価」と表現する。


    4. 「数学の勉強」は,「形式陶冶」

    「使わない」は,つぎを要点とする:
      勉強したものが無くなっていくことは,同時に,あるものを残していくことである。

    この「あるもの」のつくられることが,「数学の勉強」の「用」になる。
    そして「傾向性」が,この「あるもの」である。
    「傾向性」は,「能力」も含む,射程の広い概念である。

    「傾向性」は,「if(状況)─then(行動)」の形で機能的に表現される。
    これは「形式」の表現になっており,「形式陶冶」の「形式」はこれにあたる。
    よって,「数学の勉強」は「形式陶冶」ということになる。


    5. 「形式」とは何かの押さえ

    ところで,「形式」は存在としてどのように考えることになるものか?

    「形式」は,「規模の大きな概念」である。 「形式」と「概念」の違いはニュアンスの違いであり,違いを感じさせているものは「大きさ」である。

    形式の形成メカニズムの《堆積 → 中身が抜ける》は,個人の環境・経験値に依存する。 したがって,形式は個依存である。

    「形式」は,<実感される>がこれの存在のしかたである。
    形式の実感は,年齢と関係するところがある。 実際,加齢に伴い,形式行動が増える。またリアルな通時的比較の領域が拡がる。そこで,「形式」の実感も増す。


    6. 数学が陶冶する形式の押さえ

    ここまでの行論で,「数学の勉強」は「形式陶冶」ということになった。 そこで,「数学の勉強は何のため?」の立論は,つぎの論に進む:
      「数学の勉強」で陶冶される「形式」は,どのようなものか?

    「形式」の内容を考える段に入ると,「数学の勉強」に対しつぎの二つを区別することが再び必要になる:
    1. 数学の勉強
    2. 学校数学の勉強


    数学の勉強の場合,「形式」はどのように考えられるものになるか。
    数学の勉強は,数学という学問の特性から,<普遍指向・形式指向・体系指向・論理指向・還元主義・構成主義の勉強>というふうになる。 これに応じて,普遍指向・形式指向・体系指向・論理指向・還元主義・構成主義の明晰性が,数学で陶冶される形式の特徴になる。
    数学の勉強は,自ずと<形(構造)>の方法論の鍛錬,そして<形(構造) の理論>の方法論の鍛錬になっている。 数学を素材にしたこの鍛錬は,「形( 構造) をとらえる力」「理論化する力」と呼べるような傾向性をつくる。

     註 : 数学の勉強で陶冶される傾向性は,PISA/OECD が主題化するような「生きる力 (=今を生きる力)」とはむしろ逆のものになる。 すなわち,「普遍指向」である:「ムードに流されない落ち着いた境地・達観」

    つぎに学校数学の勉強の場合,「形式」はどのように考えられるものになるか。
    学校数学は「何でもあり」である。
    よって「形式」も,「何でもあり」になる。


    7. <数学教える>と<数学教える>では,<数学教える>が形式陶冶

    形式は,勉強した数学の内容が自分のうちで無くなっていくことの一方で,自分のうちで残るものである。
    実際,「無くすことで得る」が,<成長>の要諦である。
    <数学教える>と<数学教える>では,<数学教える>が形式陶冶である。

     註 : 形式の直接陶冶を教育にしようとする考え方は,間違いである。 ──「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」の類は,この錯誤をやっていることになる。