Up 要 旨 作成: 2010-07-14
更新: 2013-01-31


    数学の勉強は何のため?」を問う者は,その「数学の勉強」が「数学を使う」にならない者である。
    よってこの問いは,「無用の数学の勉強は何のため?」である。
    そしてこの「無用の数学の勉強は何のため?」が,本論考の主題化する「数学の勉強は何のため?」である。

    そこで本論考では,「数学の勉強は何のため?」に対する道具主義的な答えは,最初から除外されるものになる。
    道具主義的な答えとは,「数学は,このような道具として使われることにより,役に立つ」の形の答えである。

    さらに本論考は,改革主義的な答えも除外することにする。
    改革主義的な答えとは,「現状をこのように改めるために,数学の勉強はこのように改めることが必要である」の形の答えである。
    本論考の「数学の勉強は何のため?」の問いは,「現前の数学の勉強は,現前の主体をどのように変容させるのか?」の問いである。

    特に,本論考は,改革主義的な経済主義的答えを除外する。
    改革主義的な経済主義的答えとは,「われわれの生きる場は経済社会であるが,数学はそこで生き残るための競争力である」のタイプの答えである。

    改革主義的な経済主義的答えを除外することは,学校数学目的論の主流を除外することになる。
    学校数学目的論の主流とは,つぎの流れに現されているところの学校数学目的論である:
      「数学的考え方」→「数学的問題解決」→「数学的リテラシー」

     註 : 社会をリードするものが,教育もリードする。
    それは,経済主義である。
    経済主義の考える教育は,競争力陶冶である。
    今日では,その競争力は「グローバル社会で勝ち抜いていく競争力」である。
    「数学的リテラシー」は,この競争力陶冶を謳うものである。 それは,OECD PISA の経済主義と連携している。
    経済主義に問われるのは,教育の普遍的意味の閑却である:
      「競争力が,教育の考える<個の自己実現>の形なのか?


    まとめると,本論考が主題化する「数学の勉強は何のため?」の問いは,「現前の無用の数学の勉強は,現前の主体をどのように変容させるのか?」の問いである。