Up 授業は,何でもありに 作成: 2012-10-05
更新: 2012-10-19


    現前の授業は,多様な「授業への慣れ」の現れである。 そして,多様な「授業への慣れ」の現れとして,算数・数学科の授業は「何でもあり」を現す。

    算数・数学科の授業は,一般に,数学の授業と受け止められている。 しかし,ここが既に違っている。
    算数・数学科の授業は,数学の授業ではない:
      現前の算数・数学科の授業は,数学の授業ではない。
      そして,算数・数学科はもともと,数学を授業するものとはならない。

    算数・数学科の授業内容は,数学とはなっていない。
    このことは,算数・数学科の各授業内容とそれに対応する数学との対比によって示される。


    数学とは,数学の方法のことである。
    数学の数学たる所以は,数学の方法である。
    それは,「論理体系/構成主義」である。
    論理体系として構築できたものは,内容が数学らしくなくとも,「数学」を称えることができる。 逆に,内容が数学らしくとも,論理体系の体(てい) をなしていないものは,「数学」を称えることはできない。

    そして学校数学は,論理体系/構成主義とはなっていない。
    学校数学は,非構成的な手法に頓着しない。
    循環論法も平然とやってのける。


    学校数学は数学の方法に即かない。 このことにより,数学ではない。
    算数・数学科の授業は,数学の授業ではない。

    学校数学が数学の方法に即かないのは,算数・数学科の授業が数学の授業ではないのは,これが「授業は教員と生徒の関係性」の導くところだからである。
    授業は,成長曲線としての教員と成長曲線としての生徒の相互作用である。
    そしてこの関係性の機序によって,算数・数学科は数学を授業するものとはならない。

    学校数学は,つぎの2つのモーメントによって,数学──論理体系/構成主義──になるものではない:
    1. 構成主義に即けるための要件を欠く
    2. 構成主義に即くことは,教育にならない

    「構成主義に即けるための要件を欠く」とは:
      学校数学が構成主義に即けるための要件の第一は,構成主義をやれる人材であるが,学校数学はこの要件を欠く。
      構成主義に即けることは,高度な専門性である。 そして,とりわけ学校教員は,この専門性を身につけていない。 実際,この専門性を身につける課程は,学校教員になる課程と両立しない。

    「構成主義に即くことは,教育にならない」とは:
      構成主義は,高い専門性である。 これは,一般生徒がついていけるものではない。
      構成主義に即く指導は,生徒を不能にしてしまう。 端的に,この指導は立たない──生徒の自主的ドロップアウトを俟つまでもなく。


    学校数学は,構成主義に即かない代償として,その場しのぎの構成──早晩破綻することになる構成──でつなぐふうになる。

    1. 小学算数の「かけ算」
      数学は,「積・乗法」を, 自然数,分数,正負の数,複素数,‥‥ を通して同じ意味であるように,定める。
      自然数のかけ算での「かけ算」の意味づけは,分数になると通用しない (破綻する)。
      分数のかけ算での「かけ算」の意味づけは,正負の数になると通用しない (破綻する)。

    2. 高校数学の「積分」
      数学の積分は,微分と互いに逆の関係に立つ。
      高校数学の「積分」は,「求面積」をこれの意味にする。
      「求面積」は,微分と互いに逆の関係にならない。