Up 「余計・無駄をやって肝心をやらない」 作成: 2012-09-30
更新: 2012-10-20


    授業は,生徒の<わかる>がゴールである。
    このゴールにいたるために必要なプロセスをつくるとき,それが「授業」になる。

    プロセスの実現は,一定の時間を要する。
    この時間が,「授業時間」である。
    授業,そして授業時間は,結果である。

    授業は,<わかる>がエンディングになるストーリーの実現である。
    ストーリーは,「<わかる>がエンディング」の縛りによって,「導入・展開・まとめ」の形をとるものになる。

    教員が「導入・展開・まとめ」を行わないのは,これの意味を理解できないためである。
    「導入・展開・まとめ」の意味を理解するとは,<わかる>を理解するということである。
    教員は,<わかる>を生半可に考える。
    <わかる>の考えが生半可なので,<わかる>を実現するためには授業構成が完全でなければならないということが,わからないのである。
    教員は簡単に「できる子・できない子」を口にするが,それは<わかる>をわかっていないためである。


    教員は,「導入・展開・まとめ」を却けることで,授業の必然形というものを持てない。
    そこで,教員にとって,授業は授業時間を消化するもののことになる。
    授業設計は,授業時間が埋まってくれる内容を用意することと,授業時間が消化される局面を設定することである。

      授業時間が埋まってくれる内容を用意する:
      教育実習生では,授業時間の埋まらないことがいちばんの恐怖になる。
      そこで,授業設計では,詰め物をいろいろ捻り出し,十分過多になったところで安心する。
      授業は,過多に用意した詰め物を,順番に提示していくことである。
      授業中は,用意した物を使い切って時間の余ることが,いちばんの心配になる。
      繰り返すが,授業時間の埋まらないことがいちばんの恐怖なのである。
      教育実習生のこの心理は,教員でも同じである。

      授業時間が消化される局面を設定する:
      「机間巡視」や「グループ・ディスカッション」が,これに使える。

    この結果が,「余計・無駄をやって,肝心をやらない」授業である。

      この逆の「肝心をやって,余計・無駄をやらない」は,「<わかる>実現の理詰めのプロセスを,淡々と踏む」である。