Up 教員と生徒の関係性 作成: 2012-10-01
更新: 2012-10-01


    分数をわかっていない教員の「分数の授業」は,分数の授業にならない。
    自然数の勉強ができていない生徒に,「分数の授業」は成り立たない。
    授業は,教員と生徒の関係性である。

    算数・数学科の授業がどのようなものになるか/なるべきかは,この視点から考えることになる。
    授業が変わるとは,教員と生徒の関係が変わるということである。
    授業を変えるとは,教員と生徒の関係を変えるということである。

    変える主体は,教員である。
    生徒ではない。
    実際,教員は,授業によって生徒を変えていく者であり,さらに教員と生徒の関係としての授業を変える主体である。

    教員の現前は,人として成長してきたその成長曲線の端点である。
    同様に,生徒の現前は,人として成長してきたその成長曲線の端点である。
    授業は,成長曲線としての教員と成長曲線としての生徒の相互作用である。
    これが,「授業は教員と生徒の関係性」の中身である。

    教員は,一つの成長曲線のことである。
    授業が変わるとは,授業を変えるとは,教員が自分の成長曲線に新たな線を追加するということである。
    授業に向上が見られるとは,教員が成長しているということである。
    授業に向上が見られないとは,その教員が<成長しない教員>だということである。

      生徒のことを愚痴る教員がいるが,それは,自分が<成長しない教員>であることをわざわざ自分で吹聴しているわけである。

    教員の成長曲線が低迷している様が,「授業力が低い」である。
    成長曲線同士が折り合わないとき,授業崩壊へと傾く。
    授業崩壊は,教員の側の「低迷する成長曲線」,すなわち授業力の低さの問題である。

    しかし,授業力が低い教員は,逆に,授業崩壊を生徒のせいにする。
    このような生徒を担当することになった自分の不運を嘆く。
    しかし,授業は,現前の生徒を受け入れるところから始まる。
    実際,現前の生徒を受け入れられないこと,対応できないことが,「授業力が低い」の意味である。

    授業崩壊は,「授業態度がよくない性癖の生徒がいて,これが授業を崩壊させる」というのではない。
    拙い授業に対しては,生徒は「よくない授業態度」で応ずる。
    「よくない授業態度」は,授業者に対する「自分はこれに堪えられない」の発信である。
    授業者に対する「おまえを教師とは認めない」の発信である。


    教育実習生の受け入れを依頼された学校の長は,実習生を受けもつ教員を決めるとき,学級経営がしっかりできている教員を選ぶ。 そして,教育実習の締めとなる実習生の研究授業の反省会では,実習生に対し,「学級経営がしっかりできているからこのような授業ができているのだ」と釘を刺すことを忘れない。

    このときの「学級経営がしっかりできている」の意味は,「教員と生徒の成長曲線同士が折り合っていて,授業が成り立つ」である。
    そしてこれの反対が,教員と生徒の成長曲線同士がまったく折り合っていない状態としての「学級崩壊・授業崩壊」である。