Up はじめに 作成: 2012-10-05
更新: 2012-10-19


    授業は,生徒の<わかる>を実現するプロセスである。
    授業力は,生徒の<わかる>を実現する授業を行える力である。

    授業力は,授業力陶冶を修業として自らに課しこれを行うことで,身につけていくものである。

    授業力は,修業にしっかり取り組んでも,向上が遅々たるものである。
    修業しているつもりでも,それが修業になっていなければ,授業力の向上はない。
    いわんや,修業しない者に授業力の向上はない。


    修業は,形(かた) の修業である。
    形(かた) とは,それを行えば自分の稚拙・未熟が現れるようにつくられたものである。
    形(かた) を修めたとは,稚拙・未熟を治めたということである。 形(かた) を修めて,「免許皆伝」となる。
    実際には,この境地にはいつまでも至れない。 修業は,形(かた) を極めるという趣で,いつまでも続く。

    授業力陶冶の修業における「形(かた)」は,「導入・展開・まとめ」の授業の形(かた) である。
    これを自分の授業で実践することが,授業力陶冶の修業である。

    しかし,算数・数学科は,「導入・展開・まとめ」の授業の形(かた) が行われなくなって久しい。
    「導入・展開・まとめ」を行うことが算数・数学科の授業の修業であるから,これが行われないとは,「教員は授業力が低く,しかも授業力の伸びしろがない」ということである。


    以上が,本論考の論ずる内容である。
    そしてこれを,以下の構成で論じる。

    先ず,授業が<わかる>実現のプロセスであるということ──この自明のこと──を,改めて押さえる。 これが第1節である

    この<わかる>実現のプロセスは,理に適ったプロセスとして,自ずと形(かた) を現す。 これが,「導入・展開・まとめ」の授業の形(かた) である。
    このことを,第2節で押さえる。

    授業力陶冶は,「導入・展開・まとめ」の授業の形(かた) の修業である。
    修業方法は,「導入・展開・まとめ」の授業実践である。
    このことを,第3節で押さえる。

    授業力陶冶の修業方法は「導入・展開・まとめ」の授業実践であるが,教員は「導入・展開・まとめ」を行わない。 「導入・展開・まとめ」の形(かた) を行わないことが,教員の文化になっている。 (この文化醸成に与っているものの中に,特に「改革」ムーブメントがある。)
    この文化は,「導入・展開・まとめ」を知らない文化であり,「導入・展開・まとめ」を耳にしていてもそれが大事であることを知らない文化である。 教員は授業力陶冶の仕方を知らない。
    このことを,第4節で論ずる。

    教員は授業力陶冶の仕方を知らない。 そこで,授業力が低いままとなる。 教員の授業力は,伸びしろがない。
    このことを,第5節で論ずる。

    授業力の低い教員は,どんな授業をすることになるか?
    余計・無駄をやって,肝心をやらない。
    教員は,余計・無駄を洗練させる。 教員は,これを授業力向上だと錯覚する。 しかしこれは,「授業力向上」のはなしではなく,「授業への慣れ」の話である。
    現前の授業は,多様な「授業への慣れ」の現れである。 そして,多様な「授業への慣れ」の現れとして,算数・数学科の授業は「何でもあり」の様相を呈するものになる。
    このことを,第6節で論ずる。

    最後の第7節では,「授業崩壊」に言及する。
    授業力の低い教員の授業は,授業崩壊を現す。
    授業崩壊は,生徒の粗暴な振る舞いが目に見えて,そこで「授業崩壊」となるのではない。 同一の授業に対し,粗暴な振る舞いに及ぶか及ばないかを分けるものは,きっかけである。 きっかけが粗暴な振る舞いに及ぶか及ばないかの分けれ目になっているその授業は,崩壊しているのである。
    粗暴な振る舞いに及ばないとは,我慢しているということである。 授業崩壊には,粗暴な振る舞いと我慢の二つのタイプがある。
    そして,我慢タイプを考えるとき,「授業力が低い」は「授業崩壊」とイコールになる。