Up 「形式陶冶」 作成: 2013-07-07
更新: 2013-07-07


    学校数学は何のため?」の答えは,論理の上では形がいろいろあり得ても,実際的なものとなると,形が自ずと限定されてくる。
    すなわち,「学校数学は何のため?」の答えは,他者の論難を想定して,完備を期してつくるものになる。 行うことは,理論構築であり,論証である。 そして,完備を期してつくるものは,自ずと定石・定番・定型を現す。

      ネットでの「学校数学は何のため?」の議論は,ありとあらゆる形を現すものになる。 これは,自分が匿名でいられるためである。
      「匿名」の意味は,「論難を受けることはないので,物が言える」である。

    この定型は,「形式陶冶」が中心におさまる。
    以下が,こうなる理由である:
     学校数学は何のため?」の答えづくりは,答えに つぎのことを含ませようとする:
     《生徒の側からの「学校数学の勉強は自分にどんな得がある?」の問いに対し,
      すべての生徒に学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答える。》
    実際,学校数学を合理化する形は,少なくとも基本においては,これである。
    そしてこのとき,「得」を「数学実用」とすることはできない。
    現前に反するからである。
    「数学を勉強して,数学でないものを得る」を答えの形にしなければならない。
    この「数学でないもの」に何があてられる?
    「形式」を,これにあてる。