Up 外界の形式が自分に届く 作成: 2013-09-20
更新: 2014-04-12


  1. 学校数学の勉強は何のため?

    赤ん坊と大人の差は,歴然としている。
    この間にあるものは,成長である。
    成長をつくるものは,「食べる」と「勉強する」である。

    勉強は,基本,何でもよい
    ただ,食べ物の「主食」にあたるものが勉強にもあれば,ラクである。
    「数学の勉強」は,この役どころにある。
    数学は,教科の中心的位置にずっと据えられてきている。

    数学を勉強することがなぜよいのか・どうなふうによいのかは,ほんとのところわからない
    人の歴史の経験値 (「見えざる智恵」) がそれをわかっている──「数学の勉強」の現前の役どころは,このように理解するしかない


  2. 「形式陶冶」

    ところで,勉強は,真剣にやってこそ意味がある。
    真剣にけん玉に取り組むことは,漫然と学校数学の授業を受けることに勝る──このように思うべきである。
    何事も,真剣に取り組めば,「武道・芸道」の謂う「道」になる。
    数学の勉強も,「道」の趣で考えるのがよい。

    「道」のゴールは,「形(かた)」である。
    勉強は,「形(かた)」修得のプロセスである。
    そこで,「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対しては,「形(かた) を修得するため」と答えることになる。

    ここに「形式陶冶」ということばがある。
    「形式陶冶」の「形式」は,「形(かた)」にあたると思えばよい。
    そこで,「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対しては,「形式を修得するため」と答えることになる。
    「学校数学=形式陶冶」というわけである。

    「形式を修得する」とは,どうなることか?
    自分にこれまで届いていなかった形式が届くようになる,ということである。
    自分に対し形式が現れるようになる,ということである。

    翻って,それまではノイズの中に棲んでいたわけである。
    勉強したことで,ノイズが晴れ,それまで見えていなかった形式が現れてきたわけである。

    勉強は「形式陶冶」であり,これが「勉強→成長」の意味になる。
    そしてこのとき,学校数学の勉強は,よい成長につながる。 ──たぶんそうだ


  3. どんな形式が現れるのか? それは,どんなふうに現れるのか?

    先に,「数学を勉強することがなぜよいのか・どうなふうによいのかは,ほんとのところわからない」と述べた。 これがわかることは,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」がわかることである。

    思うに,これはわかることではないみたいだ

    ひとの言や文献に答えを求めても,無駄である。
    なぜなら,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」は,ことばになるものではないからである。 よって,ひとの言や文献になるものではないからである。

    答えは,自分のカラダに聞くのみである。
    実際,自分のカラダに丹念に聞くことをしていれば,感じてくるものがあるだろう。
    あるいは,<悟り>のようなところにまで行くかも知れない。
    併せて,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」がことばにならないことがわかる。


  4. ところで,自分がいま受けている授業は,他と比べてどうなのか?
     ──受け入れていてよいものか?


    いまの境遇は,こんなもんだとしてよい。
    利点も,さがせばいろいろあるはず。
    いまの境遇でベストに成長することを考えればよい。
    他に繁く目移りするのは,よい結果にならない。
    実際,「いい授業」とは,ことばでだけ存在するもの──実在しない。