- 「学校数学の勉強は何のため?」
赤ん坊と大人の差は,歴然としている。
この間にあるものは,成長である。
成長をつくるものは,「食べる」と「勉強する」である。
勉強は,基本,何でもよい。
ただ,食べ物の「主食」にあたるものが勉強にもあれば,ラクである。
「数学の勉強」は,この役どころにある。
数学は,教科の中心的位置にずっと据えられてきている。
数学を勉強することがなぜよいのか・どうなふうによいのかは,ほんとのところわからない。
人の歴史の経験値 (「見えざる智恵」) がそれをわかっている──「数学の勉強」の現前の役どころは,このように理解するしかない。
- 「形式陶冶」
ところで,勉強は,真剣にやってこそ意味がある。
真剣にけん玉に取り組むことは,漫然と学校数学の授業を受けることに勝る──このように思うべきである。
何事も,真剣に取り組めば,「武道・芸道」の謂う「道」になる。
数学の勉強も,「道」の趣で考えるのがよい。
「道」のゴールは,「形(かた)」である。
勉強は,「形(かた)」修得のプロセスである。
そこで,「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対しては,「形(かた) を修得するため」と答えることになる。
ここに「形式陶冶」ということばがある。
「形式陶冶」の「形式」は,「形(かた)」にあたると思えばよい。
そこで,「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対しては,「形式を修得するため」と答えることになる。
「学校数学=形式陶冶」というわけである。
「形式を修得する」とは,どうなることか?
自分にこれまで届いていなかった形式が届くようになる,ということである。
自分に対し形式が現れるようになる,ということである。
翻って,それまではノイズの中に棲んでいたわけである。
勉強したことで,ノイズが晴れ,それまで見えていなかった形式が現れてきたわけである。
勉強は「形式陶冶」であり,これが「勉強→成長」の意味になる。
そしてこのとき,学校数学の勉強は,よい成長につながる。
──たぶんそうだ。
- 「どんな形式が現れるのか? それは,どんなふうに現れるのか?」
先に,「数学を勉強することがなぜよいのか・どうなふうによいのかは,ほんとのところわからない」と述べた。
これがわかることは,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」がわかることである。
思うに,これはわかることではないみたいだ。
ひとの言や文献に答えを求めても,無駄である。
なぜなら,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」は,ことばになるものではないからである。
よって,ひとの言や文献になるものではないからである。
答えは,自分のカラダに聞くのみである。
実際,自分のカラダに丹念に聞くことをしていれば,感じてくるものがあるだろう。
あるいは,<悟り>のようなところにまで行くかも知れない。
併せて,「どんな形式が現れるのか?それは,どんなふうに現れるのか?」がことばにならないことがわかる。
- 「ところで,自分がいま受けている授業は,他と比べてどうなのか?
──受け入れていてよいものか?」
いまの境遇は,こんなもんだとしてよい。
利点も,さがせばいろいろあるはず。
いまの境遇でベストに成長することを考えればよい。
他に繁く目移りするのは,よい結果にならない。
実際,「いい授業」とは,ことばでだけ存在するもの──実在しない。
|