Up はじめに 作成: 2008-08-12
更新: 2008-08-13


    「数学教育とは何か?」の問いは,つぎの問いである:
「人は,数学を学習することで,どうなるか?」
    この問いに対する答えは,単純なものにはならない。

    この問いに答えるのは,「人は,ほうれん草を食べることで,どうなるか?」の問いに答えるのと同じである。

    「人は,ほうれん草を食べることで,どうなるか?」の問いに対して答えが立たないのは,ほうれん草を食べてどうなるという<コト>が,存在しないからである。
    ほうれん草を食べることは,ほかのいろいろなことと複合して,人が<コト>として対象化するところのものになる。 しかもその<コト>は,「ほうれん草を食べるとどうなる」ではなくて,「ほうれん草を食べないとどうなる」の形でことばになるようなものである。
    答えをつくれるとすれば,せいぜい「ほうれん草を食べないとどうなる」の方。 「ほうれん草を食べるとどうなる」の方は,不可知。

    数学を学習することは,ほかのいろいろなことと複合して,人が<コト>として対象化するところのものになる。 しかもその<コト>は,せいぜい,「数学を学習しないとどうなる」の形でことばになるようなものである。
    実際,「数学を学習するとどうなる」の形でことばにしようとすれば,いっきょに「成長」にまでいってしまう。すなわち,つぎの言い方へ:
「数学の学習は,成長と関わる。」
    ──「成長」と言うのは,なんでもありになって,なにも言っていないのと同じである。


    「数学を学習しないとどうなる」の言い方の単純なものは,「数学を学習しないと数学を使えない」である。 そしてこれの最も単純なものは,「数学を学習しないと数学のテストで点数をとれない」。

    一方,「数学を学習するとどうなる」の答えは,「数学を使える」「数学のテストで点数をとれる」ではない。 「数学を使える」「数学のテストで点数をとれる」は,「数学を学習するとどうなる」の答えの一つであって,答えの全部ではない。
    そして,「数学を使える」「数学のテストで点数をとれる」程度の答えの上をいこうとすれば,不可知論に踏み入ることになる。


    「数学の学習は,成長と関わる。」──この意味で,<教える>はつねに一般陶冶である。
    われわれは「一般陶冶」を経験的に知っているが,「経験的に知っている」という形の他に「知っている」を言うことはできない。

      一般陶冶を直接射程におく指導を考える向きがあるが,「一般陶冶」ははかり難く,計算が立たない。
      そもそも,われわれは現行の指導の一般陶冶としての射程さえ知ってはいない。