Up 死生観 作成: 2015-10-21
更新: 2015-10-21


    <生きる>は,<死を刻む>である。
    <時々刻々死んでいる>である。


    細胞は,損傷する。
    損傷した細胞は,「自殺 (apoptosis)」の形で,廃棄される。
    細胞の廃棄は,細胞分裂によって補完される。
    しかし,この補完は,まるまんまの補完ではない。
    細胞分裂によって生じた細胞は,生殖細胞,幹細胞等の特殊な場合を除き,もとの細胞よりも染色体のテロメアが短くなる。
    テロメアは細胞分裂で必要になる構造体であるので,細胞分裂が重ねられると,ついに細胞分裂のできない細胞に至る。
    この最後の細胞の死は,体から細胞が一つ減ることを意味する。
    こうして,体の細胞は,時々刻々減っている。

    細胞の減少は,体格好,体の具合を変える。
    これは,年をとると顕著に現れる。──「老化」である。

    体具合が変わることで,病気にもなりやすくなる。
    体の不具合がどうしようもなくなると,<生きる>の司令塔であるところの脳は,自ら停止する。
    「死」である。

    しかし,以上見てきたように,死は生が終わることではない。
    生は,死を重ねることである。
    いわゆる「死」は,死を重ね尽くした相のことである。


    商品経済は,生を「未成年・成年(現役)・老年(退役後)」に段階区分する。
    商品経済下の<生きる>は,未成年に対しては成年を「将来」にして,成年に対しては老年を「将来」にして,<将来の不安に備える>になる。
    「将来」は,「未成年・成年(現役)・老年(退役後)」に段階区分する考え方であり,商品経済が作り出す考え方である。
    翻って,商品経済の人間以外の生物は,「将来」をもたない。
    この「生物」観は,<将来の不安に備える>が無い死生観を導く。
    そしてこの死生観は,現前の「数学教育学」の数学教育観とは別の数学教育観を導く。

    現前の「数学教育学」は,数学教育に「未成年・成年(現役)・老年(退役後)」の死生観を重ねるものである。
    「将来」の概念を退ける死生観が導く数学教育観は,相手主体ではなく自分主体になる:
      《数学教育は,自分の体がじょうぶなうちに済ませねばならないものである》
    「自分の体がじょうぶなうちに済ませねばならないもの」,それは「遺伝」である。
    数学教育は,「遺伝」──この場合は「文化伝達」──の行為である。
    相手の成長 (「未成年・成年(現役)・老年(退役後)」) は,数学教育にとってどうでもよいことである。
    大事は,「遺伝」を済ますことである。
    後は,相手の勝手である (相手任せ)。