Up 比較行動学 作成: 2015-11-26
更新: 2015-11-26


    数学教育学は,《「能力」「行動」が何かをまだわかっていない》から開始される。
    個人が数学教育学をする行動は「探求」であるが,数学教育学は《「探求」が何かをまだわかっていない》から開始される。

    自分のことは,わからない。
    そこでひとは,《自分を自分でないものと比較する》を方法論として立てる。

    「比較文化」という方法がある。
    「数学教育学」だと,「国際比較」がよく文献になる。
    しかし,「国際比較」程度の「比較」は,数学教育学がわかりたい「能力・行動」のヒントにはならない。

    「文化人類学」というのがある。
    これの「比較文化」は,含蓄が多いが,まだ数学教育学に適う「比較」ではない。
    即ち,数学教育学に適う「比較」は,もっと根柢的なものでなければならない。
    そして,「近代化が世界を席巻する前に,旧文化を急いで記録しておかねば」の動機で「文化人類学」が興っている経緯から,それが述べていることを事実として引用するのは,やはりリスクがある。

    「動物行動学」というのがある。
    これは,自ずと「比較行動学」である。
    そしてその「比較」は,「根柢的」の度合いにおいて,数学教育学に適う。

    数学教育学は,比較行動学を自身の縛りとして用いる。
    実際,論理として,「動物の能力・行動を説明できないうちは,「数学教育」のことで「能力・行動」を言うな」となるわけである。


    進化の系統図は,「系統樹」の形で書かれる。
    それは,ヒトがてっぺんにくる。
    これは錯覚である。
    系統樹は,トポロジー図形である。
    枝の先は,すべててっぺんである。
    即ち,現前の生物種は,どれも進化のてっぺんである。
    実際,種Aと種Bは,互いに他の能力に及ばない。

    この「比較」で,例えば「生業と探求」を主題にする:
      《人の「生業と探求」に対応する他の種の「生業と探求」は何か?》
    ここで,他の種の「生業と探求」を同定したとする。
    その同定は,人の「生業と探求」の捉え方にフィードバックされる。
    そして「生業と探求」の捉え方の変更となる。


      練習
      庭師鳥のある種のオスは,メス鳥を呼び込むために,「メイポール」をつくる。
      ただつくるのではなく,優れたなものをつくろうとする。
      この行為は,「自己表現」である。
      この庭師鳥のオスに対し,「生業と探求」を考えてみる。
      捕食行動を「生業」にあて,メイポールを「探求」にあてると,収まる感がある。
      しかしこうなるためには,「探求」の意味が庭師鳥の「自己表現」の意味にならねばならない。
      庭師鳥の「自己表現」の意味は?
      この「自己表現」は,メス鳥を呼び込むためである。
      メス鳥を呼び込む行為の生物学的意味は,「自分の遺伝子を残す」である。
      以上を繋いで,つぎを得る:
        《「探求」の意味は,「自分の遺伝子を残す」》
      翻って,「探求」は,「自分の遺伝子の探求」である。
      「探求」のこの意味は,悪くない感じがする。
      実際,「生業」と「自分の遺伝子を残す」は,生物個の互いに独立な次元である。
      そして,己が存在する理由は,「自分の遺伝子を残す」の方である。