Up <生きる>の意味・価値の彼岸 作成: 2015-10-28
更新: 2015-11-08


    「数学教育」は,「人づくり」として生業う。
    そして「数学教育」には,己の「人づくり」を理由づけねばならない状況がしばしば訪れる。

    「数学教育」の「人づくり」の「人」は,「商品経済の人材」である。
    商品経済の人材づくりは,人の選別である。
    「歩留まり・間引き」が,最初から当て込まれている。

    「歩留まり・間引き」は,話が野菜栽培なら言えることで,教育では言えない。
    「数学教育」は,「みなにとってよいもの」として立つことを負わされている。
    「数学教育」は,「みなにとってよいもの」という形で自分を理由づけねばならない。

    一方,「数学教育」は,この立場に既に適応している。
    自分を「みなにとってよいもの」と最初から定めるものになっている。
    「歩留まり・間引き」のような考えは最初から悪として抑制する無意識を,形成している。

    こうして,「数学教育」の「人づくり」の理由づけは,<生きる>の意味・価値の考えを,数学教育の考え方として示すというものになる。
    「数学教育」は,<生きる>の意味・価値を考える。
    「数学教育」は,<生きる>には意味・価値がなければならないと思う

    意味・価値の考えは,是非・善悪の考えを導く。
    意味・価値は,是非・善悪で考えられるようになる。
    「人づくり」「人」の障害になるものは,非・悪である。
    「人づくり」「人」を相対化する考えは,「人づくり」「人」の障害になるものであるから,非・悪である。


    以上のことを見て取るのは,数学教育および商品経済を外から見る視座である。
    即ち,数学教育学である。

    意味・価値は,外に出れば,意味・価値でなくなる。
    是非・善悪は,外に出れば,是非・善悪でなくなる。
    意味・価値,是非・善悪は,外に出れば,無くなる。
    外は,意味・価値,是非・善悪の「彼岸」である。
    数学教育学は,科学として,「彼岸」に立つ。

      「出」の言い回しは,「外」という物理的比喩を用いたことによる。
      この場合の「出」と同じ意味で使えることばに,「脱」がある。

    科学として「彼岸」に立つ数学教育学は,<自ずと「彼岸」になっているもの>を,自分の参考にする。
    そして,<生きる>の主題では,生物学が<自ずと「彼岸」になっているもの>になる。

    実際,生物の<生きる>は,「ただ生きる」である。
    生物の<生きる>は,意味・価値がなければならない<生きる>ではない。

      生物の<生きる>は,遺伝を含蓄している。
      しかし,「<生きる>は,遺伝を含蓄している」は,「<生きる>には意味・価値があり,それは遺伝だ」ではない。