Up | 「無目的・無意味」という存り方の捉え | 作成: 2015-11-18 更新: 2015-11-18 |
ひとは,自分の行いを人に示すとき,目的・意味がある行いとして示さねばならないと思う。 実際,ひとは,他人の行いで自分が理解できないものに対しては,《その行いの目的・意味がわかる》という形で理解しようとする。 そこで,目的・意味を問う問いとなる。 「なぜ山に登るのか?」といった具合である。 「数学教育学」は,「数学教育」に目的・意味を与えるのに,実際のところ難儀する。 学校教育が強制であるとき,この強制を合理化する形は「みなにとって大事」である。 「数学教育学」は,「数学教育」を「みなにとって大事」で合理化することを,自分の務めと定める。 しかし,「みな」は,多様な個の「みな」である。 そこで,「みなにとって大事」の形は,「一般陶冶」になるのみである。 「一般陶冶」の合理化は,「一般」をそのまま一般の様(さま) で述べたら,ひとを満足させるものにならない。 「数学教育学」は,「一般」に具体性を持たせる表現を思案する。 しかし,はかばかしいものは出てこない。 「数学教育学」がやってきたことは,一般能力のことばに「数学的」をつけることであった。(「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」) 「数学教育学」は,「数学的○○」の「みなにとって大事」をどんなふうに述べたか。 「数学教育学」は,商品経済の人材像を述べてきた。 「数学的○○」はいまは「数学的リテラシー」であるが,これはグローバリズムの時勢に対応して「グローバル商品経済の人材」を述べるものになっている。 「数学教育」を「数学的○○の陶冶」に定めた「数学教育学」は,つぎに「数学教育」の内容を「数学的○○の陶冶」の内容にしようとする。 現前の学校数学の授業を,「数学的○○の陶冶」と読めるものにつくっていこうとする。 こうして,「数学」のいまの授業は,「周りと話し合う」が学習の形になっている。 「数学的リテラシーの陶冶」は,「生徒にコミュニケーションさせる」が教員にとっていちばん実践しやすい形になるからである。 授業は,「コミュニケーション」で合理化されるものになる。 これは,「コミュニケーション」が授業の免罪符になったということである。 「数学教育学」が「数学教育」の合理化に邁進することは,「数学教育」を数学教育からますます離す結果になる。 これは,数学教育生態系のダイナミクスの必然である。 「数学教育学」は,商品経済の生業である。 これを生業うということは,「数学教育」を数学教育から離すことを行うということである。 数学教育学は,「数学教育学」の行うことを,生態系のダイナミクスの一内容と定め,「是非も無し」にする。 一方,数学教育学は,「数学教育」では現れることのない数学教育とはどういうものかを,主題化する。 数学教育学は,「目的・意味」の考えと無縁の数学教育を立ててみる。 この方法論は,突飛なものではない。 数学は,言語と同格のものとして論考できる。 そして,言語の成立は,「目的・意味」の考えと無縁である。
「高度に論理的」は,言語のごく基本的なところを形式言語化してみるとわかる。 この形式言語は,人知の技ではない。 歴史でつくられるものは,どれも人知のまったく及ばない別格のものである。 言語には,数学が含まれている。 言語の成長は,数学の成長である。 言語/数学の成長は,言語/数学の遺伝の上にある。 言語/数学の遺伝は,どんなふうに成っているか。 言語教育/数学教育である。 言語/数学の遺伝は,《言語/数学を,意識的・暗黙的教育を以て,次世代へつないでいく》である。 この「遺伝」を捉える視座は,どこにおくことになるか。 根柢的には,生物学である。 「遺伝」は,先ずつぎのものである:
子を育てる動物になると,「遺伝」の内容につぎのものが加わる:
さらに言語をもつようになると,教育にことばを使えるようになる。 遺伝としての教育は,「子育て」だけが形ではない: 「遺伝としての教育」は,「無目的・無意味な教育」である。 実際,「遺伝」は,「なぜ」の問いを立てるものではない。 「遺伝」には,目的・意味はない。 「遺伝」は,「無目的・無意味」である。 こうして,「無目的・無意味な数学教育」の概念が立つ:
「なぜ山に登るのか?」 「そこに山があるから」 目的・意味を問う問いを却ける言である。 |