Up 林業と教育の同型性 作成: 2015-12-02
更新: 2015-12-03


    林業は,教育と同型なところがある。

    商品経済では,「木を育てる」(造林) が商いになる。
    商いの「木を育てる」の意味は,「木材商品の生産」である。

    商いは,生産の向上を考える。
    「向上」の内容は,「費用対効果比の向上」である。

    「木」は,複雑系の中の存在である。
    商いは,複雑系が相手になる。
    複雑系相手の「費用対効果比」の算出は,できるものではない。
    やれば,必ず間違う。

    しかし,ひとは,自分の思いで「費用対効果比」の算出を行うものである。
    都合よく胸算用して,自分を「これでうまくいく!」に導く。

    そして,ひとは,事を興すときは,これを「改革」にする。
    即ち,「バッサリ別のものに変える」を,ソルーションの形に定める。
    これは,人の傾向性,性癖,といったものである。

      「改革」の思いは,「従来型は愚,新型は賢」である。
      実際,「改革」のことばには,「従来形は旧弊」の含蓄がある。
      「複雑系」の視座は,これとは逆の見方をすることになる。

    ひとがこのとき考え出す「木を育てる」の方法は,造林を「畑作」にするというものである。
    畑作は,「耕起 → 播種/苗植え → 手入れ → 収穫」である。
    造林で「耕起」に対応するのは,「皆伐」である。
    こうして,造林は,「大面積皆伐人工造林」になる。

    皆伐は,「不経済林」の皆伐であり,広葉樹が皆伐されることになる。
    皆伐のあとにつくるのは「経済林」であり,これは針葉樹を植える。


    商品経済では,「人を育てる」(教育) が商いになる。
    商いの「人を育てる」の意味は,「人材商品の生産」である。

    商いは,生産の向上を考える。
    ところで,「人」は複雑系の中の存在である。
    商いは,複雑系が相手になる。
    複雑系相手の生産向上の胸算用は,必ず間違う。
    しかし,ひとが胸算用するときは,「これでうまくいく!」に自分を導くことを最初から決めている。
    胸算用は,都合よくつくられる。(予定調和)

    この胸算用は,ソルーションの形を「改革」(「バッサリ別のものに変える」) に定める。
    それは,学校教育を新方式に一斉に変更するというものである。
    従来方式を「皆伐」して,「人工」方式に改める。

    「数学教育」だと,数学の「知識」を退け,人材の商品経済的価値を内容にする「生きる力」をこれに替える。
    言い換えると,「教える」を退け,「一般陶冶」をこれに替える。
    「数学的○○」(「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシ−」) は,これである。 (「数学的○○」にいろいろがあるのは,同じスローガンの繰り返しは直に飽きられ捨てられるものだからである。)


    「木を育てる」の商業化は,「木を育てる」の「改革」に進ませ,「大面積皆伐人工造林」を行わせる。
    皆伐は,「不経済林」の皆伐であり,これは広葉樹の皆伐になる。
    皆伐のあとに植えるのは「経済林」であり,これは針葉樹になる。
    この「大面積皆伐人工造林」は,成らない。
    そして,「成らない」の中には,いろいろな意味の「自然破壊」が含まれてくることになる。

    「人を育てる」の商業化は,「人を育てる」の「改革」に進ませ,「知識」を退け「生きる力」(「数学的○○」) をこれに替える。
    これは,成らない。
    「成らない」の中には,いろいろな意味の「教育破壊」が含まれてくることになる。
    ムーブメントは,減衰し,終わる。
    併せて,還元のプロセスが進行する。


    「改革」は,繰り返される。
    それは,「改革」の発信が繰り返されるからである。
    林業,教育の「改革」は,発信者と受信者が分かれて存在する。
    発信者は,行政および「学者」である。
    受信者は,林業の場合だと,公有林の現場部局および民間の森林所有者,その他である。
    教育の場合だと,学校現場,各種教育産業,その他である。

    発信者は,改革プロジェクトの発信を生業にする者である。
    改革プロジェクトの発信は,改革プロジェクトの失敗が重いものだったら,生業にできない。
    実際,発信者にとって,改革プロジェクトの失敗は,軽いことである。
    先ず,改革プロジェクトは,結果責任が伴わない。
    「木を育てる」「人を育てる」の改革プロジェクトは,結果回収 (「収穫」) まで長い時間がかかる。
    その間に,担当者が替わり,プロジェクトもうやむやになる。
    そして,結果責任が無いから,失敗を考える必要がない。


    結果責任・失敗がなくてつくるプロジェクトは,何でもありのプロジェクトである。
    それは,その時々の思いつきでつくるものになる。
    改革プロジェクトは,その時々の思いつきでつくられる。

    改革プロジェクトは,失敗プロジェクトで終わるが,行政発だと,これは受けることになる。
    こうして,「改革プロジェクトを立ち上げては失敗する」が繰り返されることになる。

    ただし,「失敗する」は,改革プロジェクトの機能であり,役割である。
    これが,商品経済に適合する形だからである。
    即ち,改革プロジェクトは「経済効果」が機能である。