Up | 形の学 | 作成: 2015-11-19 更新: 2015-11-19 |
裏返すと,「数学を」「数学」の形では,合理化できないということである。 「合理化できない」の考え方は,つぎの二タイプになる:
b. 「数学を勉強しても,将来使うわけではない」 「将来使うわけではない」は,他の教科にもある。 「数学教育」の場合は,「無用」が特徴になる。 この「無用」の意味は,「フィクションの無用」である。 数学は,立場として,フィクション (「規範学」) である。 化学は,立場として,リアル (「実体学」) である。 「数学はフィクション」の意味は,「数学は形の学」である。 諸科学も現前に形を定める「形の学」なのだが,数学の「形の学」はこれとは違っている。 数学の「形」は,「コンテンツ・フリー (無内容)」なのである。
(「水の分子」の「水」は,化学の対象である。) 数学の「円」は,この形で捉えるものは数学の対象ではない。 (「円い月」の「月」は,数学の対象ではない。) 「数学」と同じことが,「国語」にもある。 実際,「国語」の内容は,コンテンツ・フリーの「言語・論理」である。 ただし,国語の授業は,何を授業しているのかわからないふうになっても,「無用」とは思われない。 理由は,「日常との近さ」である。 数学の方は,日常からぶっ飛んでいる。 「数学教育」がこれまで続いていることは,「無用」の思いを抑えつけてきたことを意味する。 実際,「無用」と思わない者たちが「数学教育」を仕切る側にいて,「無用」の思いを抑えつけてきたわけである。 いま,「数学教育」は,「数学教育」を仕切る側も「無用」の思いをもつようになっている。 商品経済のダイナミクスが,こうならせる。 商品経済のダイナミクスのいまの局面は,「実学重視」「顧客指向」の流れである。 実際,どの教科も,「実学重視」「顧客指向」の流れに棹さすものになる。 |