Up 「空観」 作成: 2014-09-11
更新: 2014-09-16


      空に雲がある。
      その雲を捉えてみようとして,雲に近づいていく。
      すると,雲は無くなってしまう。
      雲という実体があるわけではなかった。
      では,どうして雲があるのか?
      雲の中は霧である。
      水の粒が雲をつくっている。
      そうか,水の粒が実体として有るものか!
      そこで,水の粒を捉えてみようとして,これの分析に入っていく。
      すると,今度は水の粒が,さきほどの雲の役どころにつく。
      水の粒は見えなくなってしまう。
      代わって,新たな実体を見出していくことになる。

    このプロセスは,延々と続くように思える。
    自然的存在に限らず,人にとっての物事の存在性はこのようである。
    ということは,「実体として有るものは無い」ということか?
    しかし,「一切皆無」と言うと,またおかしいことになる。
    雲や水の粒が現れていることの説明がつかない。

    そこで,存在論は,「有るでもなく無いでもなく」の存在論でなければならない。
    「有るでもなく無いでもなく」を,「空(くう)」と称する。

    この存在論が,「空観 (くうがん)」である。
    「空観」は,「一切皆空」の存在論である。


    「有るでもなく無いでもなく」の存在論は,これの機序を説く。
    機序は,「縁起」である。

    再び,雲を例にする。
    雲は,水の粒の「相依(そうえ)」で成っている。
    雲を捉えようとしたら,水の粒の「相依」を見出すばかりである。
    水の粒の「相依」が雲を現し,雲の形をつくっている。
    この「相依していること」を,「縁起」を称する。

    ものごとは,「縁起」で成る。
    そしてこのときのものごとの存り様は,「有るでもなく無いでもなく」である。