Up | 「アフォーダンス」 | 作成: 2016-01-15 更新: 2016-01-16 |
認知のフローチャートは,外的刺激を原料にして表象をつくる機械の図である。 認知科学を行う者は,この機械をカラダがもつと考える者である。 そのフローチャートは,「認知」の語の含蓄をただ写しただけである。 リアルな認知の観察を要しない,専らことばの上の作業である。 一方,認知科学をする者は,「ただ写しただけ」の意識がない。 人は,ことばにだまされる。 「判断停止」をことさら唱えることが,一つの哲学 (「現象学」) になってしまう所以である。
認知科学が描く認知のフローチャートに対し「そんなわけないだろう」を返す者 (わたしはこれである) は,反表象主義の認知論をつくることになる。 「アフォーダンス」は,このような認知論の一つである。 「アフォーダンス」は,<外>を「外的刺激」ではなく,「与えてくれるもの」にする。 例えば,表象主義だと《芝生の外的刺激に対し,わたしの内なる情報処理装置が「この上で一休み」の判断をつくる》となるところを,アフォーダンスだと《芝生は,「この上で一休み」をわたしに与えてくる》となる。 「アフォーダンス」の趣旨は,内なる処理装置を無しにすることである。 表象主義は,<外>と<行為>は,内なる処理装置を間にはさんで,関接的であった。 アフォーダンスは,<外>と<行為>を直接つなぐ。 「アフォーダンス」は,これを好む者と好まない者がはっきり分かれてくる理論である。 アフォーダンスは,「<事象> afford us <感情/知識/行為>」 を,レトリックではなく,文字通りに使う。 「そんなわけないだろう」と思う者は,アフォーダンスを宗教スレスレ──あるいは既に宗教──と見ることになる。 「アフォーダンス」を好む者は,<実在措定>を疑問に思わない者である。 「アフォーダンス」を好まない者は,<実在措定>を退ける者である。 <実在措定>を疑問に思わない者は,「<事象> afford us <感情/知識/行為>」の<事象>をそのまま実在として受け取る。 <実在措定>を退ける者は,つぎのような考え方を以て,<事象>の措定そのものを退ける:
反表象主義者であって,アフォーダンスの「<事象> afford us <感情/知識/行為>」にも「そんなわけないだろう」となる者 (わたしはこれである) は,アフォーダンスをどう修正することになるか。 つぎのように修正する: この修正された「アフォーダンス」は,個体依存である。 そしてまた,発達依存である。 例えば,「<雑草> afford me <雑草を見る>」は,つぎのように発達依存である:
雑草を努めて見るようにすると,雑草がだんだんと見えてくる。 雑草を努めて調べるようにすると,雑草がさらによく見えてくる。 わたしは,「アフォーダンス」ではなく,「カラダ形成/世界形成」を主題の形に択ぶ者である。 「カラダ形成/世界形成」は,ゾウリムシが例になるように,個体の出現即「カラダ形成/世界形成」の場合がある。 人間で「カラダ形成/世界形成」を考えるときは,「経験・時間」が内容になる「成長・発達」を考える。 ゾウリムシと人間は,この間に断絶を考えるよりは,連続を考えるものである。 (実際,これが「比較」の方法論である。) そこで,「カラダ形成/世界形成」は──ゾウリムシ,人間合わせて──つぎを2極に「程度」で考えるものである: 「アフォーダンス」は,反表象主義の形を「古典的実在論への回帰」にするものである。 表象主義の極端を,また一つの極端に転じる。 極端から極端へは,なぜ生じるか? 「認知・行為」の多様性を見ないためである。 「認知・行為」には,新しい環境でピリピリ緊張した「認知・行為」も,慣れきった環境で自動的に出てしまう「認知・行為」もある。 認知科学は,前者に特化した「認知・行為」論をやって,後者を外している場合である。 そこで,「後者を外している」が,認知科学批判の突っ込みどころとなる。 「認知・行為」論の中庸は,ユクスキュルの「環世界」のようになる。 即ち,生物個体の「世界」を<幻想>の身分で立てる。 <幻想>は,自由勝手が可能な<幻想>ではなく,カントの「物自体」に拘束される<幻想>である。 「アフォーダンス」の反表象主義は,これではない。 <幻想>というバッファーを設けないで,「物自体」と生物個体を直接つなぐのである。 よって,実在論を体質にもつ者がこれを受け入れる者になり,そうでない者 (わたしはこれである) は,受け入れない者になる。
生態系は,オートポイエーシスと見ることができる。 アフォーダンス論者は,このとき,「<事象> afford us <感情/知識/行為>」を,「関係ネットワーク」の「関係」の形にしようとする。 |