Up | 思想・哲学の黄昏 | 作成: 2015-11-22 更新: 2016-01-15 |
新しい思想・哲学は,登場する。 しかし,その「新しい」は,思考タイプの新しいではない。 思想・哲学は,科学・テクノロジーを用いて理論武装する。 思想・哲学の「新しさ」は,理論武装に用いる科学・テクノロジーの新しさである。 思想・哲学の「新しさ」は,既存思考タイプに被せる衣装の「新しさ」である。 その時代の科学・テクノロジーの水準が,その時代の思想・哲学の<科学・テクノロジーを用いた理論武装>の水準である。 新しい科学・テクノロジーの登場は,これまでの思想・哲学の<科学・テクノロジーを用いた理論武装>をナンセンスにする。
「ゴミの山からは,ねずみができる」 この存在論は,いまは廃れている。 廃れさせたものは,科学・テクノロジーである。 思想・哲学の古典は,<思考タイプ>で生き残っているものである。 <科学・テクノロジーを用いた理論武装>の旧態が見るに堪えないものでも,<思考タイプ>に目を向けるとき,旧態は割り引いて考えられるものになる。 思想・哲学する者の<科学・テクノロジーに対する立ち位置>は,つぎの2通りになる: b は,理系の思想・哲学である。 商品経済では,a は不利に立場になる。 科学・テクノロジーに対する「ジェネラリスト」のスタンスは,商品経済では「専門性」にならないからである。 科学・テクノロジーは,文系の思想・哲学の居場所を無くしていく。 思想・哲学の伝統は,文系の思想・哲学の方にある。 文系の思想・哲学が,「思想・哲学」である。 科学・テクノロジーは,「思想・哲学」の居場所を無くしていく。
科学は,「思想・哲学」から出てきた。 科学・テクノロジーの時代になると,逆に科学が「思想・哲学」を圧倒するようになる。 そして商品経済は,「思想・哲学」の居場所も無くしてしまう。 ──「思想・哲学」の終焉。 科学と「思想・哲学」は,ともに<世界構築の営み>である。 そこで,科学と「思想・哲学」の違いの立て方は,「<世界構築の営み>の手法の違い」になる。 そしていまの科学は,その水準を以て,科学の手法とは違う形で「思想・哲学」の手法があることを不可能にする。 「「思想・哲学」の終焉」は,科学による「思想・哲学」の吸収合併である。 科学への一本化である。 科学の時代に「思想・哲学」が自立し生き延びる形は,「イデオロギー」ないし「宗教」である。 数学教育学は,「思想・哲学」をすることになるが,「思想・哲学」をしようとしてするものではない。 あくまでも科学が立場である。 |