Up 思想・哲学書の読み方 作成: 2016-01-14
更新: 2016-01-14


    「思想・哲学」の勉強は,「思想書・哲学書を読む」がこれの形になる。
    ところで,思想書・哲学書を読むのは,容易ではない。
    本テクストは,数学教育学専攻学生を特段読者に想定しているが,特に彼らにとって思想書・哲学書を読むのは難しい。

    この場合問題なのは,「読むのは難しい」が「内容が難しい」に取り違えられるということである。
    「読むのは難しい」が「内容が難しい」に取り違えられるのは,数学書の場合も同じである。
    そこで,数学教育学専攻学生へのアドバイスということで,「読むのは難しい」を解説する。


    書は,ことばの系列である。
    ことばは,箱である。
    書は,貨車が空の貨物列車のようなものである。

    書を読むとは,読む者が自分で箱に中身を入れつつ,意味をとっていく作業である。
    中身は,当て込んで入れる。
    当て込みの歩留まりが 8, 90% くらいだと,読めている。
    当て込みの歩留まりが 50% くらいだと,当て込みを試行錯誤しつつ読んでいる状態である。
    当て込みの歩留まりが 20%を 下回ると,「何を言っているのかチンプンカンプン」となる。
    (「‥%」は,気持である。)

    この作業は,つぎが条件になる:
    1. 箱に入れる中身を持っている。
    2. 当て込みの勘が働く。
    そしてこの条件を充足するものは,経験値である。

    このことは,つぎを意味する:
      《書は,一定の経験値を有する者を,これの読者になることを許す》


    書は,どこまでいっても箱である。
    いまの自分のままでわかりやすい書を求めるとしたら,それは小箱を長く連ねた形のものである。
    段を低くつくった階段の形のものである。
    しかし,これは経験値の問題の解決ではない

    経験値の低い者はどうするか。
    「その書を丁寧に読む」ではない
    ここは読めない経験を一つ積んでおくにとどめ,努めて経験値を高めることを営むのみである。

      「読書百遍,意自ずから通ず」のことわざがあるが,これは当然限度のあることである。

    ただし,読めない書に対しては,「書き手の下手」も考えに入れる必要がある。
    思想・哲学書の書き手は,概して,「ひとがわかるように書く」が下手である。
    実際,「ひとがわかるように書く」は,相当に意識的に修行してできるようになることである。


    結論
    いま読めないことは,悲観することではない。
    やがて読めるようになる。
    いろいろ経験を積むことが,読めるようになることである。