Up 主体─世界 作成: 2015-11-25
更新: 2015-11-26


    生物は,それぞれ,自分固有の存在・世界を定める。
    生物のこのあり方に対し,「主体」のことばをあてる。

    存在は,主体の存在であり,主体が存在と定めているところのものである。
    ──存在と定めたものが,存在である。
    世界は,主体の世界であり,主体が世界と定めているところのものである。
    ──世界と定めたものが,世界である。

    存在は,主体の営みと齟齬をきたさない限り,存在であることを続ける。
    世界は,主体の営みと齟齬をきたさない限り,世界であることを続ける。

    以上の意味で,存在・世界は主体依存である。
    また,この意味で,主観である。

      人間とクモは,存在・世界とするものが違っている
      個人Aと個人Bは,存在・世界とするものが違っている

    主体による存在・世界の定立は,これがもとにしているものが有る。
    即ち,論理は,「これがもとにしているもの」を措定させる。
    カントの「物自体」である。


    主体に存在・世界をつくらせるものは,動機である。
    例えば,「○○という名の植物は,これなのか!」「この植物の名前は?」「名前を知らないこの植物」は,いずれも,その植物を存在にする動機である。

    動機が存在・世界をつくるとは,動機の前にはその存在・世界は無かったということである。
    自分の成長は,自分の存在・世界の成長である。

      いまの自分が存在・世界としているものは,
      以前の自分が存在・世界としたものとは違っている


    数学教育学が用いる存在論は,「系-個」存在論と,そしてこの存在論である。

    例えば「勉強」。
    勉強の本質は,「自分の存在・世界の定立」である。
    「自分の存在・世界の定立」は,生物の条件である。
    こうして,勉強は「生きる」の含蓄である。
    そしてこのことは,勉強が自発になるものであることを意味する。
    勉強は,指導されるものではなく,目的を持たされるものでもない。

    したがって,学校教育が勉強を指導し,勉強に目的を持たせるとき,学校教育は勉強を別物化しているわけである。
    勉強は学校の外にあり,「趣味」「探求」のことばで表現されるところのものがそれである。
    学校の「勉強」は,「キャリア形成」「将来生業を立てられるようにする準備」である。

    翻って,学校教育は,「キャリア形成」「将来生業を立てられるようにする準備」を専らにするところである。
    これが,学校の機能・役どころである。
    学校教育は,自分を「全人教育」「子どもの成長全般の責任所在」のように思うとき,自分をおかしくする。

      もっとも,おかしい方向に進み出したムーブメントは,生態系のダイナミクスに抑制され,ほんとうにおかしくなるところまで行かないで済むようになっている。
      天網恢々疎にして漏らさず」というわけである。