Up 数学教育学専攻大学院生への註記 作成: 2015-10-08
更新: 2015-10-08


    数学教育学の入門者は,大学院数学教育学コースの大学院生ということになる。
    彼らは,数学教育学に惹かれてこれを専攻することになったわけではない。
    実際,何の学でもその学への入門はたまたまである。
    学一般への漠然とした志しと偶然から,特定の学への入門と相成る。
    ──翻って,入門する学は何でもよいということである。

    数学教育学専攻はたまたまであるから,コースに入った学生は,数学教育学とはそもそも何かを知ることが出発になる。
    しかし学生は,「数学教育学とは何か」の問いをやり過ごす者になる。
    即ち,学生は,数学教育学の論文をつくらねばならない者として課程を開始することになる。そして,数学教育学の論文をつくらねばならない者は,「数学教育学の論文とはどんなか」を「数学教育学とは何か」の問いに代える者になる。

    学生が「数学教育学とは何か」の問いをやり過ごす者になることについては,つぎの事情もある:
      《数学教育学の場合,「この学はそもそも何か」の学習テクストが存在しない》
    「数学教育学とは何か」の学習テクストが存在しないのは,現前の「数学教育学」が学問体系ではないからである。
    実際,「この学はそもそも何か」の学習テクストを持てる学は,学問体系になっている学である。


    学問体系は,学問体系をつくる視座を以てつくられる。
    学問体系をつくる視座につかないでは,学問体系はつくられない。
    現前の「数学教育学」は,学問体系をつくる視座を用いないものになっている。

    現前の「数学教育学」は,「商品作物栽培の向上」を目的にした農学,「商品生産の向上」を目的にした経済学,と同型である。
    即ち,商品経済を<世界>とし,この世界での「向上」の絵図を描き,この絵図の実現方法を案出する。

    商品経済の外に出て,商品経済を外から見る視座を設けるとき,新たな農学,経済学がつくられることになる。
    例えば「農業生態学」はこれであり,商品経済を外から見る視座を用いる農学である。
    例えば「恐慌論」はこれであり,商品経済を外から見る視座を用いる経済学である。
    そしてこのとき,これまでの学は「商法」だったことになる。
    新しい学の方は,「科学」の趣きを感じさせるものになる。

    商品経済の外に出て,商品経済を外から見る視座を設けるとき,現前の「数学教育学」とは別の数学教育学がつくられることになる。
    それは,「数学教育生態学」の趣きになる。 ──ただし,視ようとするものは<複雑系>とするに十分なものであり,それは「生態系」を超えるものである。
    そしてこのとき,数学教育学は,一つの複雑系の学として,科学/学問体系になっていく。


    学生は,「数学教育学の論文とはどんなか」を,「数学教育学とは何か」に代える。
    「数学教育学の論文とはどんなか」がわかることに,「数学教育学とは何か」がわかることを当て込む。
    しかし,「数学教育学の論文とはどんなか」は,「商品になる数学教育学の論文はどんなか」である。

    生きるとは,今の時節に生きることである。
    そして今の時節は,商品経済の時節である。
    商品経済の時節の「教育」は,「商品経済に有能な人材づくり」である。
    そして,「商品経済に有能な人材づくり」は,それ自体<商品生産>である。

    現前の「数学教育」は,「商品経済の時節に有能な人材づくり」である。
    現前の「数学教育学」は,「商品経済の時節に有能な人材」を,「数学的考え方を身につけた人材」「数学的問題解決能力を身につけた人材」「数学的リテラシーを身につけた人材」として主題化してきた。
    商品経済はいま「グローバリズム」の局面であるが,「数学的リテラシー」は「グローバリズムの時節に有能な人材」の主題化になっている。

    現前の「数学教育学」を行う者は,「商品経済の時節に有能な人材づくり」から出発しなければならない者である。
    自分の書いた論文が論文として受け入れられるとは,「商品経済の時節に有能な人材づくり」に貢献すると受け取られるということである。
    逆に,「商品経済の時節に有能な人材づくり」を相対化するようなことを書くのは,論文づくりとして行うことではない。

    商品経済の時節には,論文づくりは商品生産である。
    自分の書いた論文が論文として受け入れられるとは,商品として通用するということである。
    そして,「商品経済の時節に有能な人材づくり」に貢献すると受け取られることが,この商品の必要条件である。

    論文づくりのこのスタンスは,「学者」「科学者」のスタンスをいったん横に置くというものである。
    数学教育学を行う者は,このスタンスを意識的にそして自在にとれることが肝要になる。
    そしてそのために,「数学教育学」と数学教育学の関係の理解が必要になる。


    人材づくりの企ては,その過程において不良人材析出の不可避を同時に認めることになる。
    一般に,良質な商品を求めることは,不良品質の不可避を認めることである。
    しかし,「教育」は,立場上,不良品質の不可避を認めることができない。
    そこで,「一人ひとりを大切に」の言い回しを用いる。
    しかしこのとき,「教育」は欺瞞になる。
    欺瞞は,「一人ひとりを大切に」をみなが互いに言い合うことで,蓋がされる。
    こうして,「教育」はひとが「善人」として振る舞うところとなる。

    「数学教育学」の論文をつくることは,「有能な人材づくり」に貢献すると受け取られるものをつくることである。
    「有能な人材づくり」は,善人の営為である。
    そこで論文づくりは,善人の営為である。
    現前の「数学教育学」は,これに入るときは,善人として振る舞わねばならない。

    学/科学としての数学教育は,「有能な人材づくり」を相対化する。
    「学者」「科学者」は,善悪の彼岸がスタンスになる。
    一方,現前の「数学教育学」では,ひとは善人にならねばならない。
    現前の「数学教育学」は,学/科学を退けている体(てい) である。

    <学/科学を退ける>は,「数学教育学」の機能・役割の含蓄である。
    是非を言うことではない。
    そもそも,科学に「是非を言う」はない。
    科学において,現前は現成である。
    数学教育学/数学教育生態学において,現前は現成である

    「数学教育学」の研究主題のうちに,「メタ認知」というのがある。
    その研究は,学習におけるメタ認知の重要性を唱える。
    数学教育学/数学教育生態学は,現前の「数学教育学」のメタ認知といった格好になる。
    「数学教育学の論文とはどんなか」がわかることに「数学教育学とは何か」がわかることを当て込んでいる学生に対しては,数学教育学/数学教育生態学の指導がメタ認知指導に代わる。 ──数学教育学は,こんなふうにも位置している。