Up | 生態学は,経験の棚卸し | 作成: 2015-11-20 更新: 2016-01-29 |
現成論は,年季の賜(たまもの) である。 これができるようになるには,年季が要る。 数学教育学は,年季の賜である。 本テクストで示した「数学教育生態学」の内容は,経験値を以て語ることばかりである。 ものを書くとは,「このくらい書いてもだいじょうぶか?」と自問しながら書くということである。 経験値の低さを意識すると,「このテーマでものを書くのはまだ無理だ」となる。 経験値の人並みを意識すると,「えい,やっちゃえ」となる。 ひとは大事を先延ばしにするものであるが,これには理がある。 大事と構えるには,経験値が要る。 そして,経験値は専門性とは違う。 いろいろな無駄をたくさんやることが,経験値を高めるということである。 無駄は,無駄ではない。 そして,いろいろな無駄をたくさんやるのは,時間がかかることである。 この時間は,ショートカットできない。 経験は,効率化できない。 実際,経験の効率化は,しっぺ返しをくらうことになる。 数学教育学を行おうとする者にとって,関門は<学校教員>である。 <学校教員>の捉えに,最も時間をかけることになる。 対して,<子ども>は関門ではない。 「数学教育学」は<子ども>を主題にする論考を好むが,それは<子ども>だと主題にしやすいからである。 これ以上でも以下でもない。 実際,「子どもに応じた数学の授業」は,認知心理学とかコミュニケーション論などを持ち出すまでもなく,実際に授業をつくってやってみればわかることである。そしてこれがいちばん確かにわかることである。 「学校教員に応じた数学の授業」は,そうはいかない。 数学の授業は,学校教員の資質・能力・立場にあわせようとしたら,どこまでも程度を下げていくことになる。 数学の授業ではなくなる。 「数学の授業」を考えることは,これと併せて「教員教育」を考えることなのである。 そして,「教員教育」を考えることは,生態系を考えることである。 生態系を考えることは,現成を考えることである。 現成を考えられるようにするものは,経験値である。 こうして,先の言の「関門は<学校教員>」「<学校教員>の捉えに,最も時間をかける」になるわけである。 こういうわけで,授業論に手をつけることができ,そしてひどい下手ややらかさないで済むようになるには,どうしても最低10年くらいの修行期間を費やすことになる。それも,集中的に修行した場合で「10年」である。 集中してやるのは時間を惜しむからであるが,時間を惜しむ体勢でつくる論考は,生硬なものになる。 これも避けられないことである。 このことを述べるのは,特に数学教育学専攻学生へのアドバイスを考えてである。 彼らは,数学教育の経験値がゼロの体(てい)で数学教育の論考を課される者である。 無理なものは,できない。 学生は,数学教育の論考ができなくてあたりまえである。 このことを知らないと,勝手に悲観して,自分を追い詰めたりする。 職人修行は,<教えない>がスタイルになっている。 <教えない>にはいろいろ深い含蓄があるが,そのうちの一つが「勝手に悲観させない」である。 できない者に教えるのは,できないことを強いることになって,その者を潰してしまうのである。 学生は,現状を観念するとともに楽観してかかることが,肝要である。 楽観できるために,観念する。 悲観するのは,<観念する>が無いからである。 |