Up 「数学は必要」は, 「数学教育」のため 作成: 2016-01-05
更新: 2016-02-05


    「数学が必要」を努めて唱えることを立場にする者がいる。
    数学教育を生業う者である。

    数学教育を生業う者は,数学教育の保持に努める者である。
    生業を保つために,「数学が必要」の論を立てる。
    彼らは,「数学が必要」から出発する。
    彼らのつくる「数学が必要」の論は,予定調和である。


    数学教育は,「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」の理で立つものとして,開始した。
    「数学が必要」は,「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」である。

    時代は変わる。
    数学教育は,「全ての者にとって数学は必要」を存在理由にしなければならないものになる。
    そこで,「数学が必要」に「一般陶冶」が加えられる。
    「数学が必要」は,いまの時代はつぎの二面になっている:
      1. 数学陶冶
      2. 一般陶冶

    「一般陶冶」に対しては,「数学が必要」のことばは使えない。
    そこで一歩退いて,「数学のよさ」が使われることになる。
    また,「数学的○○」のことばが開発される。


    「数学陶冶」「一般陶冶」は,両方とも説明が難しい。

    a.「数学陶冶」
    「数学陶冶」の理は「数学の実用」であり,それは「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」である。
    「全ての者にとって数学は必要」は,個の多様性に抗う。
    「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」に対しては,「自分は,産業の基礎科学のさらに基礎学としての数学とは無縁」となる者が一定割合で現れる。

     註 : 「無縁」には,つぎの2タイプがある:
      a.「数学は無用
       b.「数学は趣味

    「一定割合」は,「少数」ということではない。
    「個の多様性」「全ての者にとっての数学教育」の時代は,「無縁」が多数派になっていく。
    「個の多様性」「全ての者にとっての数学教育」の時代は,「数学教育」が「数学陶冶」を存在理由にできなくなる時代である。

    実際,「無縁」には,理がある。
    「数学は必要」は,「無縁」の優位に立つものではない。
    両者は,互いに相対的である。

    「個の多様性」は,つぎの道理である:
    • 「人それぞれ」──数学の要不要は,人それぞれ
    • 「得ることは失うこと」──数学を身につけることは他の何かを身につけないこと


    b.「一般陶冶」
    「一般陶冶」の説明困難の内容は,《「一般陶冶」は実証できない》である。
    実証どころか,「一般陶冶」プロジェクトはうやむやにされて終わるのみである。

    そうなってしまうのは,「一般能力」がもともと箱物だからである。
    そして,箱物をつくらせているのが,表象主義である。
    現前の「数学教育」「数学教育学」は,表象主義である。

    「一般陶冶」の説明に納得する者は,その説明をつくっている当人のみである。 彼らは,説明つくることが生業の一部であり,そのため自分を騙して自分の説明に納得しなければならない者たちである。


    「数学が必要」(「数学陶冶」「一般陶冶」) の説明は困難であり,実際無理であるが,「数学教育」「数学教育学」はこの無理をしなければならない立場にある。
    「数学が必要」は,「数学教育」「数学教育学」が自身の存在理由として必要とするものである。
    「数学教育」「数学教育学」は,「数学が必要」──「数学を身につけることは,よいこと」──を前提にするものである。

    こうして,つぎの結論になる:
      《「数学が必要」は,「数学教育」「数学教育学」のためのものである》

    「数学教育」「数学教育学」は,無意識において,《「数学が必要」は,「数学教育」「数学教育学」のためのものである》を抑圧する。
    数学が必要なのは決まり切ったこと」を,無意識にしていく。
    「数学が必要」の所以に,思考停止する。