Up 「数学を教える」の退化 作成: 2015-10-21
更新: 2016-02-05


    学校数学の進化は,「数学を教える」の退化である。
    退化の動因として,大きく3つのことが挙げられる。

    一つ目は,数学の教授/学習が,もともと教員・生徒にとって荷が重過ぎるものだということ。
    学校数学が,いまは「全ての者にとっての学校数学」になっている。
    「全ての者にとっての学校数学」は,授業を数学の授業ではないものにすることでしか,行えない。
    そして,授業が数学の授業でなくなることは,教員にとってもありがたい。
    「数学的○○」が学校現場のすんなり受け入れるものになるのは,このダイナミクスによる。

    二つ目は,「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」に応ずる者は,部分的だということである。
    この部分は,「全ての者にとっての学校数学」の中では活性化しない。
    活性化させる方法は専門化であるが,これは学校数学のダイナミクスからは出て来ないものである。
    そして,活性化しないことは,不活性化が進むことである。

    そして,三つ目は,「数学を教える」はそれ自体では<経済効果>を持てないということである。
    以下,このことについて特に述べる。


    「数学を教える」は,形のうえでは「数学の伝授」(一般に「文化伝授」) である。
    そしてこれに応じる勉強の動機は,「趣味」(「おもしろそうだから/おもしろいから勉強する」) である。
    この系は,<経済効果>を持てない。
    そして,商品経済では,<経済効果>を持てないことは,「不要」を意味する。

    一般に,商品経済の系では,商品経済の生業として立たない営みは,営みにならない。
    生業が立たなくなった営みは,廃れる。
    商品経済の系では,文化伝授が成り立つ形は,<経済効果>である。
    <経済効果>を持てない文化伝授は,廃れる。

    そこで,文化伝授は<経済効果>を持てるかという話になる。
    文化伝授は,伝統文化の伝授であり,<経済効果>を持てない。
    商品経済の系では,<経済効果>がすべてである。
    よって,文化伝授は,衰退がお定まりとなる。


    <経済効果>を保てなくなった文化伝授が保たれる形は,これにスポンサーがつくことである。
    いちばんのスポンサーは,国である。
    続いて,大企業とか,メディチ家とかである。

    目下,国立大学の人文社会科学コース縮小が,行政的に取り組まれている。
    人文社会科学コースは,<経済効果>を持てない。
    よって,商品経済の系では,人文社会科学コースは衰退が定めとなる。
    大学は,人文社会科学コースを,<経済効果>の大きさを訴えることができるコースに換えていく。
    例えば,「地域創成コース」のような。
    この「人文社会科学コース縮小」現象の意味は,国が人文社会科学のスポンサーの役割を降りたということである。

    スポンサーの役割を降りるのは,国自体が<経済効果>を持てるものとして生きねばならず,そしてそのための国の台所は苦しいからである。
    国がスポンサー役を降りるコースは,人文社会科学コースに限らない。
    <経済効果>を持てないコース全般が,対象になる。
    基礎研究分野は,つぎは自分の番であることを覚悟している。
    基礎研究は,どれもマニアックであり,卑近の「役に立つ」とは無縁のものとして立っている。

    数学コースは,実際は人文社会科学や基礎研究分野に似ている。
    数学自体の内容はマニアックであり,卑近の「役に立つ」とは無縁のものである。
    しかし,数学は諸科学の基礎と見なされている。
    そこで,大きい大学の理学部数学コースは,まだ大事にされる余地はある。
    一方,小さい大学の数学コースは,「理数コース」のように,統廃合が定めとなる。

    数学教育の系は,この流れに影響される。
    「数学を」は,衰退の一途をたどる。
    相対的に,「数学で」がますます元気になる。