Up 「数学を教える」: 要旨 作成: 2015-12-15
更新: 2016-02-05


    「数学を教える」は,学校教員にとって荷が重過ぎるものである。
    ──強調:「荷が重い」ではなく,「荷が重過ぎる」!

    「数学を教える」は,「数学をわかっている」が条件である。
    「数学がわかる」は,「数学がわかる」修行のたまものである。
    しかし,学校教員は,「数学がわかる」修行をしてきた者ではないし,またこの修行を負わせるものでもない。

    また,「数学を教える」は,「<教える>をわかっている」が条件である。
    「<教える>がわかる」の内容は,「<人は,こうしたらこうなるものである>がわかる」である。
    「<人は,こうしたらこうなるものである>がわかる」もまた,修行のたまものである。
    そして,教員在職中に「<人は,こうしたらこうなるものである>がわかる」のステージに到達するというのは,並外れたことである。


    こういうわけで,学校教員は,「数学を教える」をやっているのではなく,「数学を教える」の探索をやっている。
    その探索は,ずっと試行錯誤である。
    ここで,「試行錯誤である」は,「試行錯誤の探索である他ない」である。
    「数学を教える」に要求される経験の量・質は,教員一般の負えるものではまったくない。

    一方,教員は,自身の「数学を教える」の探索を,他に対しては正真正銘の「数学を教える」であるとしなければならない。
    教員を生業うとは,こういうことであり,「是非も無し」である。


    教員の生業としての「数学を教える」は,必要経験値と生業のトレードオフ/均衡相として,現成である。
    そして,この「必要経験値と生業のトレードオフ/均衡」は,商品経済の中にある。
    「必要経験値と生業のトレードオフ/均衡」は,それ自体経済の歯車として機能していることを以て,現成である。

    機能的「数学を教える」──「数学がわかる」を実現する「数学を教える」──が可能であっても,現実のものにはならない。
    機能的「数学を教える」の出現は,系の攪乱として,系の力学で抑圧されるのみである。
    教員の生業としての「数学を教える」は,「これ以上はない No more than this」というものである。──現成である。


    なお,《教員の生業としての「数学を教える」が現成──機能的「数学を教える」の出現は,系の攪乱として,系の力学で抑圧されるのみ──》の論は,疎外論である。
    本論考のいろいろな箇所で指摘しているが,現成論と疎外論は同じものである。
    (数学教育生態学は,数学教育現成論であり,数学教育疎外論である!)