Up 適応・不適応 作成: 2015-10-26
更新: 2016-01-29


    現前の「数学教育」は,「数学教育による人づくり」として立つ。

    「数学教育による人づくり」は,生徒を「数学教育」への適応者と不適応者に分けるものになる。
    実際,不適応者の析出は,「人づくり」の機能である。
    「人づくり」は,「選別」である。

    一方,「数学教育」では,適応・不適応は是非の問題になる。
    不適応者はネガティブな存在になる。

    このとき,「数学教育学」は栽培学と同型である:
      栽培学では,豊作・不作は是非である。
      商品に育つ(適応)・育たない(不適応) は,是非である。


    しかし同型は,次段の「不適応者の扱い方」の段で,壊れる。
    栽培学は,不適応者に対し「不向き」を言える。
    「数学教育学」は,不適応者に対し「不向き」を言えない。

     註 : 「不適応」は,「不向き」を意味するだけである。

    教育は,一斉教育 (公教育) に「進化」すると,この教育の埒外という存在を認めてはならないものになる。
    不適応を「不向き」の意味にすることはできない。
    そこで,「落ちこぼれ」とか「遅進者」と呼ぶことになる。
    《不適応者は「不向き」によって不適応なのではない》となったので,不適応者は教育の失敗作ということになる。

     註 : <不向き>は,「矯正」のスタンスでのぞむものではない。
    <不向き>に対してとられるスタンスは,「リスペクト」である。

    教育の埒外という存在を認めてはならない教育は,「縛る・強いる」になる。
    そして,「縛る・強いる」は,不適応者において悪循環する。 (「蛇の生殺し」模様)


    こうして,「数学教育」は,つぎのダブルバインドを生きる:
    • 不適応者の析出を,仕事の内容にする
    • 不適応者の析出はよくない」を唱える

    「数学教育」は,均衡相を求めるように運動/変質する。
    均衡相には,つぎの二つがある:
    1. 思考停止
      ──《どうにもならないものは,考えてもしようがない》
    2. 授業が参加型授業 (成績評価が成立しない授業) になる「数学教育」
      ──《数学を「数学的」に変える》