Up 「人づくり」対「個の多様性」 作成: 2015-10-24
更新: 2016-02-06


    学校数学は,「人づくり」である必要はない。
    実際,「学校数学で人づくりとはどういうことか?」と問われたら,答えられない。
    しかし,学校数学は「人づくり」だということにされる。
    なぜか?

    学校数学は,学校数学を生業にする者が行うものである。
    学校数学を生業にすることには,学校数学の意義を継承することが含まれる。

    学校数学は,「人づくり」として始まる。
    そのときの「人づくり」の意味は,「産業の基礎科学のさらに基礎学としての数学を,身につけさせる」である。
    時代は変わる。
    「産業の基礎科学のさらに基礎学としての数学を,身につけさせる」は,現実と合わなくなる。
    これへの対応は,《学校数学の意義を「人づくり」にしてきたことを,やめる》ではない。
    《「人づくり」の内容を変えて,学校数学の「人づくり」の意義を継承する》である。


    「人づくり」の意義の継承は,簡単には済まない。
    「人づくり」をどんな内容にしたら,学校数学の「人づくり」の意義を継続できるか?──これが問題になる。
    実際,どんな内容でもよいわけではない。

    「人づくり」は,特定の能力・ライフスタイルを,ゴールに立てることになる。
    「数学的○○」だと,数学的問題解決型の能力・ライフスタイルをゴールに立てる。

    「数学的○○」主義者は,このゴール概念を普遍的と定めていることになる。
    しかし,能力・ライフスタイルが数学的問題解決型でない者は、ふつうに存在する。
    「人づくり」で設定されるゴール概念は,「個の多様性」と衝突する。

    「人づくり」を行うとは,「個の多様性」を押し切るということである。
    これは,無理をすることである。

    以前は「無理」ではなかったのか?
    「個の多様性」が弱かった。
    いまは,生徒に「個の多様性」を全開させる時代である。


    いずれにせよ,学校数学を生業う者は,「人づくり」を以て「個の多様性」を押し切る役回りになる。
    この役には,自分で自分を騙さねば,つけない。
    心理は,これを果たす。
    学校数学を生業う者は,「学校数学は人づくり──相手をよい方向に導くもの」を信じる者になる。
    実際,「相手をよい方向に導く」と思えばこそ,《従うことを相手に強いる》ができるわけである。

      現前の「数学教育学」の論考は,「生徒を数学教育について来させる方法は?」の論考になる。
      現前の「数学教育学」は,「ついて来させる」まで溯りこれを論点にするというものではない。

    《従うことを相手に強いる》は,系の攪乱になる。
    この<攪乱>は,生態学の主題化になる。