Up | 「授業」: 要旨 | 作成: 2015-12-05 更新: 2016-02-08 |
学校数学とは,教員が「数学の授業」としてパフォーマンスできるもののことである。 《学校数学とは,教員が「数学の授業」としてパフォーマンスできるもののことである》には,《「数学の授業」として有って欲しいものが起こらない》の含蓄がある。 <「数学の授業」として有って欲しいが起こらないもの>とは? 「勉強」は,「開眼」「目から鱗」になることである。 「勉強」は,世界構築・世界獲得の「探索」である。 <「数学の授業」として有って欲しいが起こらないもの>とは,この「勉強」を起こす授業である。 現前の「授業」は,教員が「授業」としてパフォーマンスできるものが「授業」になったものである。 これが,現前の「授業」の理である。 パフォーマンスできる・できないの制約要因は,つぎのものである:
a2. 授業の力 数学の力,授業の力は,ともに修行の賜である。 数学の力の修行は,その中において特段集中的な修業が必要になる。 授業の力の修行は,教員人生すべてがこれにあてられるというものである。 教員は,数学の力の修行を負わない者として,在る。 実際,数学の力の修行を負うことを教員の条件にしたら,教員職は成立しない。 教員は,授業の力の修行のつねに途上にある。 教員は,つねに,授業の未熟者である。 「授業」に多くを求めることができない所以である。 現前の「数学教育」は,数学教育を「人づくり」にする。 「人づくり」は,「一般能力の陶冶」で考える。 ここに,「数学的○○」(「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」)の登場となる。 「問題解決型ジェネラリストの養成」が,「人づくり」の意味になる。 「数学的○○」の陶冶の考え方は,《「数学的○○を行動することで,数学的○○が身につく》である。 そこで,「数学的○○を行動させる」が「授業」として行うものになる。 「数学的○○を行動させる」は,授業ごとに完結するものを考えることになる。 そこで,一回の授業で完結できる内容ということで,数学的トピックが授業内容にされる。 しかし,学校数学は,主題はあくまでも数学である。 数学は,体系でもつ。 「数学的○○を行動させる」は,学校数学の授業として成らない。 「数学的○○」は,箱物である。 一方,「数学的○○」は,<経済効果>という商品経済的意味をもつ。 一つの「数学的○○」は,およそ20年間,世界規模で続く。 これの経済効果は,莫大なものである。 また,「数学的○○」は,箱物であることが教員にとってむしろありがたいものになる。 授業が何でもあり模様になり,授業力が問われる度合いが減るからである。 |