Up | 教育行政のダイナミクス | 作成: 2016-02-02 更新: 2016-02-03 |
「文明開化」は,「西欧化」である。 ここに,学校教育が「西欧化」の内容の一つになり,学校教育の一分野として数学教育 (学校数学) が定まる。 数学教育の理由づけは,「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」である。 国が経済的に豊かになることに,自由意識・権利意識の高まりが随う。 併せて,学校教育の規模拡大が随う。──高等教育を受けることが一般化する。 ここに,数学教育に対する「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」の理由づけが,時代と合わなくなる。 数学教育は,「全ての者にとって数学は必要」を存在理由にするものに,変わらねばならなくなる。 こうして,数学教育は「一般陶冶」立てることになる。 「産業の基礎科学のさらに基礎学として数学は必要」は,商品経済では不変の命題である。 数学教育は,「数学陶冶」と「一般陶冶」の間で均衡を求めるふうに運動する。 この運動は,「数学陶冶」と「一般陶冶」の間の振り子運動として安定する。 およそ10年おきに出される『学習指導要領』は,振り子の折り返しを宣言するものになっている。 振り子の折り返しに駄目を押すというのが,『学習指導要領』の役回りである。 ──注意:『学習指導要領』が振り子運動をつくっているのではない。 人の生業は,《内向きには「保身」,外向きには「改革」》がこれの形になる。 「保身」は,絶対命題である。 そして,「保身」は,《外向きには「改革」》が条件になる。 教育行政も,内容は<人の生業>であり,《内向きには「保身」,外向きには「改革」》のダイナミクスで運動している。 このとき,数学教育行政が,「保身」を危うくせずに「改革」を示すことができる形は,つぎの3通りである: 昔,学校数学に「そろばん」が突如現れたことがある。 案の定やがて消えたが,これは,上の b の場合である。 教育行政も,内容は<人の生業>であるから,《どうでもよい内容であれば,声が大きい者の意見が通る》もあるというわけである。 戦後社会主義運動の時代,学校数学も,内容について文部省側と日教組側が争うところとなった。 中心は,「数と量」の領域である。 「数と量」の文部省側の立場は「数は量の比」,日教組側は「数は量の抽象」であった。 争いは「割合論争」の形で展開される。 数学の「数と量」は「数は量の比」であり,「数は量の抽象」は循環論法をやっていることになる。 しかし,争いは「数は量の抽象」の勝ち模様になる。 そして,学校数学は,「数は量の抽象」に転向していく。 これは,上の c の場合である。 |