Up | 「疎外」論 : 要旨 | 作成: 2016-01-18 更新: 2016-01-24 |
生きるとは,<意味>を負い,その<意味>を生きることである。 個の<意味>は,開かれている。 <意味>が開かれている個にとって,一つの<意味>を負いそれを生きることは,偶然である。 個がこの偶然に翻弄される様を,「疎外」という。 系に個が生きることは,疎外を生きることである。 疎外が,個の現成の形である。 人は,<生きる>に「上手・下手」「できる・できない」を見る。 <生きる>の「上手・下手」「できる・できない」は,<疎外を生きる>の「上手・下手」「できる・できない」である。 人は,<疎外を生きる>の「下手・できない」を,いろいろな括りで主題にする。 例えば,「病理」。 特に,身体が他と者と変わりがないように見えるときは,「心の病」「精神病」を主題化する。 例えば,「能力」。 特に,身体が他と者と変わりがないように見えるときは,「知能障害」を主題化する。 <生きる>が<疎外を生きる>であるとは,翻って,疎外でない生きるは生きられないということである。 即ち,ある意味を負いその意味を生きるという形でしか,生きられないということである。 個の存在は,もともと意味をもたない。 個は,自分が<意味をもたない存在>である状態を持て余す。 そこで,自分をさっさと何物かにしてくれる意味が示されると,それに飛びつく。 そして,その何物として生きていく。 このときの個の心理は,「抑圧」と「合理化」である。 本来形の<意味をもたない自分>を抑圧し,<意味をもたされた自分>を合理化する。 数学教育を生業にする者は,数学教育の無意味を持て余す者であり,「数学教育」を示されるとこれに飛びつく。 ──数学教育を抑圧し,「数学教育」を合理化する。 数学教育学を生業にする者は,数学教育学の無意味を持て余す者であり,「数学教育学」を示されるとこれに飛びつく。 ──数学教育学を抑圧し,「数学教育学」を合理化する。 数学教育を生業にする者は,「数学教育」と数学教育のダブルバインドを生きる者である。 数学教育学を生業にする者は,「数学教育学」と数学教育学のダブルバインドを生きる者である。 数学教育学とは,抑圧した数学教育学を取り戻す営みのことである。 |