Up | カラダ | 作成: 2016-01-22 更新: 2016-01-22 |
「教授/学習」のことばが当てられる前のその事態は,他の者も同じく「教授/学習」のことばを当てるというものではない。
「教授/学習」のことばが当てられる前のその事態を,何と呼ぼうか。 本論考では,「探索」のことばを用いてきた。 現象学の言い回しを用いれば,《「教授/学習」の現象学的還元は「探索」》というわけである。 探索の主体は,カラダである。 探索するカラダは,探索が自分の変容に返ってくる系である。 自分で自分を呑む「ウロボロス」である。
ゆったりと飲み込むのではなく,瞬時の飲み込みが繰り返されるというイメージである。 (詳しくは,次節の「系」論で。) 「探索するカラダ」から導かれる「教授/学習」は,現前の「数学教育学」が示してくる「教授/学習」とは全く違うものになる。 現前の「数学教育学」は,表象主義である。 「学習」は,外にあるものを内に写すプロセスであり,このとき内的対象としてつくられるものが表象である。 このモデルでは,<教授─学習>は,<ものを与える─そのものを受け取る>になる。 ものの受け渡しである。 相手にもたせたいものは,それを与えればよい。 与えるものの種類・分量が,受け取るものの種類・分量である。 これに対し「探索するカラダ」では,<ものの受け渡し>が立たない。 AがBにものsを与えようとする。 このときBはカラダである。 AがBに与えているつもりのsは,Bにとって存在ではない。 Bにとっての存在は,AがBにものsを与えようとしている事態全体である。 Bはこれを自分の探索の空間と定め,探索を開始する。 Bはこの探索で,カラダを変容させていく。 数学教育学の反表象主義は,「探索するカラダ」主義である。 |