Up 比較学 作成: 2016-01-10
更新: 2016-01-21


    学術を生業にしている者は,「思想」に「哲学」のイメージを持つ。
    しかもその「哲学」は,西洋哲学である。
    なぜか。
    学術を生業にするとはこうなることだからである。

    西洋哲学では,人間が他の生き物とは別格の存在になる。
    こうなるのは,<自分に似せて人間をつくった神>を神にしてきたからである。

    <自分に似せて人間をつくった神>を神とする者は,人間と人間以外の生き物の間に共通を見てはならない者である。
    西洋哲学は,人間と人間以外の生き物の間に,共通を見ない。
    人間以外の生き物は,機械の扱いになる。(Cf. デカルトの動物機械論)
    機械であるから,哲学の主題になるものではない。


    翻って,<自分に似せて人間をつくった神>を持たない者は,人間と人間以外の生き物の間に共通・通底を見る者である。
    生物学/科学は,この見方の方を支持する。

     註 : 動物機械論は,いまは「本能」のことばを用いる形で生き残っている。


    共通・通底を見ることは,つぎに比較に進むことである。
    比較学──「比較行動学」「比較生態学」「比較文化学」──の開始となるわけである。

    比較学は,ことばや先入観に騙されている状態から脱する唯一の方法である。 数学教育学は,様々な主題で,ことばの罠・先入観の落とし穴が待っている。 このような数学教育学にとって,比較学は重要な方法になる。

      数学教育の主題では,とりわけ「教授/学習」が,努めて比較学をするところとなる。 ──他山の石が,認知科学/表象主義の「教授/学習」モデル。