Up 探索 作成: 2016-01-22
更新: 2016-01-22


    「○○の教授/学習」は,つぎのように存在する:
      Aが「これは,○○の教授/学習」と言う/考えるときの<これ>
    <これ>は,Aの「これは,○○の教授/学習」がなければ,「○○の教授/学習」ではない。
    即ち,現象としての<これ>は,「○○の教授/学習」ではない。

    現象としての<これ>は,学習者の探索である。
    実際,そこに見えると言えるものは,学習者の探索である。


    この学習者の探索は,「学習」と称したくなる。
    しかし,「学習」とはそういうものか?

    数学のある内容を学習する。
    それを,学習したことにする。
    何年か経ってその内容と再会する。
    ああ,そういうことだったのか!」と思う。
    このとき,どこからどこまで「学習」であったのか?
    「何年か過ごす」も,「学習」の要素である。
    ということは,いまも「学習」の途上である。


    探索から行為は導けない。
    「どこからどこまでがこの行為」という特定ができないのである:
      探索は,カラダの出来事である。
      カラダの出来事には,外に現れないものもある。
      そして,出来事には<持続>がある。
      このような出来事は,空間的にも時間的にも区切りの入れようがない。

    行為を括れると思うのは,錯覚である。
    この錯覚は,ことばを使っているせいである。

      「走る」ということばをもつと,「走る」という行為があると思ってしまう。
      「走る」という行為は,存在しない。
      ある現象が「走る」であるのは,だれかが「これは走るだ」と定めていることによる。
      そのだれかがいなければ,その現象は「走る」ではない。


    探索はとらえどころがないが,このとらえどころがない探索こそが,数学教育が相手にするものである。
    数学教育は,そこで何が起きているのかは,わからない。
    一方,数学教育は,これで構わない。
    これで構わないのは,これで困ることはないからである。
    そして,なんだかんだいっても,数学教育は人の生活の中の歯車としてまあまあの働きをしているように見える。

    要点は,生活は「不明」で困ることはないということである。
    生活は「不明」で困ることはない。
    人間以外の生物の営みが,これを示している (比較学!)。

    「不明」は,人がつくるものである。
    人が「不明」をつくるのは,ことばをもつからである。
    ことばが不自由になる事態に遭うとき,人はこれを「不明」と定める。
    (さらに,「明らかにせねば」と思う者が現れてくる。)