Up 現象学 作成: 2016-01-22
更新: 2016-01-22


    「○○の教授/学習」のことばをもつと,このようなものが実体的に存在するように思ってしまう。
    ことばは,人を騙す。

    「○○の教授/学習」は,つぎのように存在する:
      Aが「これは,○○の教授/学習」と言う/考えるときの<これ>

    いま,Aが「これは,○○の教授/学習」と言うのを,Bが聞く。
    Bは,<これ>を「○○の教授/学習」として受け取る。
    あるいは,「Aが考えるところの○○の教授/学習」として受け取る。
    こうして,<これ>がBにとっても「○○の教授/学習」になる。
    「○○の教授/学習」の共有が起こる。

    <これ>は,Aの「これは,○○の教授/学習」がなければ,「○○の教授/学習」ではない。
    即ち,現象としての<これ>は,「○○の教授/学習」ではない。
    翻って,「○○の教授/学習」は,Aの<つもり>として存在するのみである。

    この論法は,どこかで見たことがある。
    そう,現象学である。
    <つもり>は,現象学の<志向性>である。
    実際,現象学の本質は「<志向性>の存在論」である。


    教員養成系大学・学部教員を生業う者は,小中校の研究授業の参観・指導が仕事の一つになる。
    授業はまさに,《「○○の教授/学習」は,Aの<つもり>として存在する》の実証である。
    研究授業では,事前に指導案が参観者に配布される。
    これは,「この授業は,○○の教授/学習のつもりです」を伝えているわけである。
    授業参観者は,授業を「○○の教授/学習」と定める。
    わたしは,流儀として,指導案は見ないことにしてきた。
    授業者は,案の定,何の授業かわからない授業をやってくれる。
    この授業は,○○の教授/学習のつもりです」を知らない者は,その授業が「何をやっているのかさっぱりわからん」となる者である。

      わたしが「何をやっているのかさっぱりわからん」であるから,授業を受けている生徒も「何をやっているのかさっぱりわからん」である。
      ただ,生徒は,「何をやっているのかさっぱりわからん」がわからない者である。
      これが,授業者にとっての救いである。


    現象学は,やたら七面倒くさいことを論じているイメージがあるが,言っていることは単純である。
    現象学は,「虚心」「無垢の目」を唱えるものである。
    実際,これが現象学のすべてである。

      現象学が七面倒くさい話になっているのは,現象学が現象学を七面倒くさい話にする者に属しているからである。
      現象学を七面倒くさい話にする者は,現象学研究を生業にしている者である。
      実際,現象学研究が生業になるためには,現象学は七面倒くさい話でなければならない。