Up 「カラダ」論 : 要旨 作成: 2016-01-22
更新: 2016-01-22


    数学教育学の反表象主義は,「探索するカラダ」主義である。
    ──以下が,「探索するカラダ」導出の推論である。


    (1) 現象学
    「○○の教授/学習」のことばをもつと,このようなものが実体的に存在するように思ってしまう。 ──ことばは,人を騙す。
    「○○の教授/学習」は,つぎのように存在する:
      Aが「これは,○○の教授/学習」と言う/考えるときの<これ>
    「○○の教授/学習」は,Aの<つもり>として存在するのみである。
    この論法は,現象学である。──<つもり>には,現象学の<志向性>が対応する。


    (2) 比較学
    生物学/科学は,人間と人間以外の生き物の間に共通・通底を示す。
    共通・通底を見ることは,つぎに比較に進むことである。
    比較学──「比較行動学」「比較生態学」「比較文化学」──の開始となる。

    比較学は,ことばや先入観に騙されている状態から脱する唯一の方法である。
    数学教育学は,様々な主題で,ことばの罠・先入観の落とし穴が待っている。
    このような数学教育学にとって,比較学は重要な方法になる。


    (3) 探索
    教授/学習を,現象に戻す。
    その現象は,学習者の探索である。
    即ち,そこに見えると言えるものは,学習者の探索である。

    探索から行為は,導けない。
    行為を括れると思うのは,錯覚である。
    この錯覚は,ことばを使っているせいである。

    探索はとらえどころがないが,このとらえどころがない探索こそが,数学教育が相手にするものである。
    数学教育は,そこで何が起きているのかは,わからない。
    一方,数学教育は,これで構わない。
    要点は,生活は「不明」で困ることはないということである。

    人間以外の生物は,「不明」をもたない。
    人が「不明」をつくるのは,ことばをもつからである。
    ことばが不自由になる事態に遭うとき,人はこれを「不明」と定める。


    (4) カラダ
    探索の主体は,カラダである。
    探索するカラダは,探索が自分の変容に返ってくる系である。
    自分で自分を呑む「ウロボロス」である。

    「探索するカラダ」から導かれる「教授/学習」は,現前の「数学教育学」が示してくる「教授/学習」とは全く違うものになる。
    「数学教育学」の<教授─学習>は,<ものを与える─そのものを受け取る>であり,ものの受け渡しである。
    「探索するカラダ」では,<ものの受け渡し>が立たない。