Up | 不可知論的中庸 | 作成: 2016-01-21 更新: 2016-01-21 |
「この理論を理解することが数学教育ができるようになること」タイプの理論は,存在しない。 数学教育は,適切な経験を積んでできるようになるものである。 数学教育は,カラダがわかっていくものである。 「この理論を理解することが数学教育ができるようになること」タイプの理論が存在しないのは,それはカラダの理論になるからである。 理論をつくるとは対象を言語で絡め取ることであるが,数学教育をするカラダは<言語で絡め取る>はできない。 数学教育をするカラダの理論は,無理な企図である。 無理な企図からつくられるものは,言語崩壊型空論である。 <数学教育をする>は,<歩く>と同じである。 <歩く>は,経験を積んでできるようになる。 何かの理論を勉強してできるようになるものではない。 そもそも,<歩く>は,<歩く>を考え出したらできなくなるものである。 数学教育は,理論無用である。 現実には,「この理論を理解することが数学教育ができるようになること」タイプのテクストが流通している。 理由は,これが生業になるからである。 「理論無用」と「生業」は,別のことである。 ──これを論ずることは,数学教育生態学である数学教育学を行うことに他ならない。 数学教育学は反表象主義ということになるが,この反表象主義は「理論無用」「カラダの理論は無理な企図」の反表象主義である。 数学教育学は,反表象主義の言語崩壊型空論の現象を,「体質は表象主義と同じ」のように捉える:
反表象主義の言語崩壊型空論は,反表象主義に還元主義・明証主義が持ち込まれている現象である。 こうして,「不可知論的中庸」が,数学教育学が「カラダの理論」の問題に対するときのスタンスになる。 |