Up 反表象主義 作成: 2016-01-13
更新: 2016-01-19


    「数学的○○」は,表象主義である。
    表象主義は,「認知」をつぎの図式で理解する立場である:

    「内的枠組」は,「認知・行動」全般にいろいろに解釈され,いろいろな形に表される。
    「数学的問題解決」では「問題解決能力」を立てるが,これは「内的枠組」である:
    ここで「問題解決能力」では大き過ぎるとなったときは,サブ・モジュールの連結の形に表す。
    即ち,「問題解決ストラティジー」を各種定め,各ストラティジーxに対し「xを用いる力」があるとして,これをサブ・モジュールにするわけである。


    しかし,生き物の様は,この図式に表現されるもののようには見えない。
    即ち,単体のプロセスとして記述されるところの「認知・行動」は,生き物の様からは取り出せない。
    生き物の様は,「行為」でひとまとまりのように見える。
    そしてそれは,カラダの自動運動のように見える。
    「内的枠組・表象」の措定は,余計なことのように思える。
    「対象」の措定も,妥当かというと,あやしいものになる。

    そのような思いをもって,自分 (ヒト) を改めて観察してみる。
    そうすると,これもカラダの自動運動のように見えてくる。

    ここに,表象主義に対し,アンチが立てられる。
    表象主義へのアンチの形は,いろいろである。
    これらは,「反表象主義」のことばで括られる。


    「反表象主義」の趣意は,「反分節」である。

    ことばをもつと,対象の捉えが,対象の空間的・時間的分節化になる。
    分節化の目的は,対象生成のメカニズムをつくることである。
    人が対象を理解する形は,《対象はこのようにつくられる》である。
    人は対象を《対象はこのようにつくられる》で理解する。

    メカニズムの導入は,対象に無いものの導入である。
    しかし,人は,このメカニズムを実体概念にする。
    ことばに騙されるというわけである。


    しかし,「反分節」は「曖昧模糊」になる。
    「カラダの自動運動」を図式にしようとすると,のっぺらぼうの絵で立ち止まってしまい,それから先に進めない:
    「認知・行動」の反表象主義バージョンをつくるのは,ひどく難しい。

    表象主義の図式がすっきりしているのは,表象主義はことばの含意の写しをやるものだからである。
    表象主義の「認知」の図式は,認知の観察から得たものではなく,「認知」のことばの含意をただ書いたものである。
    表象主義は,ことばで考えることができ,ふつうにことばを使うようにことばを使える。

    対して,反表象主義は,ことばで考えることができない。ふつうにことばを使うようにはことばを使えない。