Up 『数学教育普遍学探求』: おわりに 作成: 2016-02-15
更新: 2016-02-15


    数学教育学が科学になる形は,《現前を理の実現と定め,その理を探る営み》である。
    数学教育学にとっての「現前」は,現前の「数学教育」「数学教育学」である。
    現前の「数学教育」「数学教育学」を理の実現と定めその理を探る科学は,生態学である。
    この生態学を以て明らかにしようとする「生態」は,生態としての「数学教育」「数学教育学」であり,その中心は生業としての「数学教育」「数学教育学」である。

    「数学教育」「数学教育学」を生業う者にとって,自分の生業が生態学されるのは,おもしろくないことである。
    また,「数学教育」「数学教育学」の生業を生態学しようとする方にとっても,「数学教育」「数学教育学」の生業は,生態学の対象としてはさほど興味の引かれるものではない。
    「数学教育」「数学教育学」の生業は,あくまでもそれを生業うためのものであって,これを生態学するためのものではない。

    本論考は,何をしようとするものか。
    「数学教育」「数学教育学」の生態学の反照として,数学を再現しようとする。

    「数学教育」「数学教育学」は,「数学離れ」の螺旋運動に入る。
    「数学離れ」は,既に「数学忘却」である。
    皮肉なことだが,数学教育学は数学をだめにするのである。
    数学教育学は進化する。 そしてこの進化において,数学教育学は数学をだめにしていくことになる。

    本論考は,この現象の意味・理由を生態学のスタンスで論考する。
    論考は,「数学離れ・数学忘却」を「数学教育」「数学教育学」の生業の理の現れとして論じるものになる。
    これが,裏返った「数学の再現」になる。
    ──そう見積もるというわけである。


    数学の原点は,リアリズムである。
    ここでリアリズムは,プラトニズムを「リアリズム」と呼ぶときのリアリズムである。
    プラトニズムは,現前が「かりそめ」になり,イデアが実在になる。

      現在でも,数学にリアリズムは根強い。
      例えば数論は,リアリズムがむしろふつうの分野である。
      数に宇宙の秘密が隠されている」の思いで探求している者も,いたりするわけである。


    数学への構えが「現前はかりそめ,イデアが実在」であるとき,数学は哲学・文学と同じになる。
    現前を仮構にして「普遍」を幻想する構えは,数学と相性がよい。
    精神の時代──逸脱・トリップ・退廃の時代──は,哲学・文学そして数学が,流行る。
    生活の時代──健全の時代──は,哲学・文学そして数学は,流行らない。

    ものごとは,流行っている相において,おもしろい。
    数学は,退廃の時代におもしろい。
    健全の時代には,つまらないものになる。


    こうして,「数学を視る」には,つぎの二通りがある:
      1. 生命の相 (トリップ) を視る
      2. 生命の抜けた相を視る

    a を行うと,数学文学論の趣きになる。
    数学文学論は,「数学教育学」にとって無縁となるものである。
    「数学教育学」の「数学」になるものは,b である。

    さらに,「数学教育学」は,bも無くすることがこれの進化になる。
    《「数学」を「数学的」に替える》が,この進化の内容である。


    数学教育学は,生態学/普遍学として,数学文学論を収める懐をもつ。
    本論考は,数学文学論は行わないが,数学教育学に「数学文学論」の枠をここに確保する。
    プレースホルダーとしての「数学文学論」の確保である。
    プレースホルダーの役割は,数学忘却の阻止である。