Up | ゲーム──形式主義/公理主義 | 作成: 2016-02-13 更新: 2016-02-13 |
ゲームの装いの方法論は,形式主義である。 ここで,「形式主義」は,ヒルベルトの開発した形式主義のことである。 数学の理論展開は,定義・定理の展開である。 定理は,証明された命題である。 「証明」は,英語で "proof" である。 "proof" は,"waterproof" の "proof" で,意味は「敵を退け自分を守る」である。 証明で退けようとする敵は,定理に対する外からのいちゃもん (「それは違う!」の声) である。 反論は,論争になるだけである。 論争は,泥沼の論争になるだけである。 こうならないためには,証明はただの証明ではだめである。 こうして考え至ったのが,「公理」の方法である。 この方法は,『ユークリッド原論』に溯る。 しかし,証明が成立するのは,「公理」の方法を共有する者の間に限る。 そうでない者がいちゃもんをつけてきたときは,どうしようもない。 どうしようもない者に対しては,どうするか? 「相手にしない」が,最善である。 即ち,つぎのように返す:
形式主義は,公理主義の到達点である。 形式主義/公理主義の第一義は,「整理」──混沌の大整理・ゴミの大廃棄──である。 そして第二義として,数学的対象の本質・関係性の新しい発見がある。 これまでつながっていなかったものが,つながる。 公理は,偽装された定義である (ポワンカレ)。 形式主義の邑に棲む者は,公理に対し卑近を念頭においている。 公理には,意味がある。 公理には,意味がある。──ただ,隠している。 隠すことには,大事な効用がある。 それが,外部の<どうしようもない者>対策である。 即ち,相手がどうしようもない者のとき,公理を示して「自分はこの規則でゲームをしているだけ」と言って,お引き取りいただく。 <どうしようもない者>とは,どんな者のことか? 数学を認識論にする者である。
( 『「かけ算の順序」の数学とイデオロギーとモンスター』) 数学教育学にとって,<どうしようもない者>問題は,他人事ではない。 なぜなら,現前の「数学教育」「数学教育学」は,数学を認識論にする者がふつうだからである。 実際,学校数学が数学とずれるのは,数学を認識論にする者が学校数学をつくる者だからである。
( 『数学は「数は量の比」, 学校数学は「数は量の抽象」』) |