Up 論考の構成 作成: 2015-12-15
更新: 2016-02-12


    本テクストは,学校数学の普遍形の論考を行う。

    学校数学の普遍形の論考は,その前に<数学を教える>の普遍形の論考がある。
    <数学を教える>の普遍形の論考は,その前に<数学を勉強する>の普遍形の論考がある。
    <数学を教える>の普遍形の論考は,その前に「数学」の押さえがある。

    「そもそも」の言い方だと,こうである:
      「数学を教える」とは,そもそもどういうこと?
      その前に,そもそも「数学を勉強する」とはどういうこと?
      その前に,そもそも「数学」って何?


    なぜ,そもそも論か?

    生活では,「数学を教える」「数学を勉強する」「数学」は所与である。
    生活では,「数学を教える」「数学を勉強する」がどういうことか・「数学」が何かなど,考えることがない。

    「数学を教える」を立てる立場の数学教育学は,そうはいかない。
    実際,数学教育学では,「数学を教える」「数学を勉強する」は「数学のよさ」があってのものである。
    数学教育学は,「数学のよさ」を立てるものである。
    そして「数学のよさ」を立てる者は,「数学」を考えている者である。


    しかしここでさらに,つぎのことに注意する:
      《普遍形の話は,数学教育学のロジックの「そもそも」ともずれてくる》

    数学教育学では,「数学のよさ」が理由の「数学を勉強する」となる。
    しかし,「数学を勉強する」の普遍形ということになると,「数学のよさ」が理由の「数学を勉強する」にはならない:
      「数学を勉強する」は,数学の探索である。
      「数学のよさ」は,この探索が見出すものである。
      「数学のよさ」の前に,「数学を勉強する」がある。
      (《数学があり,そして自分というものがあるから,数学に向かう》)
    「数学を勉強する」の普遍は,生物の「探索 (exploratory bihavior)」に求めることになる。 (生物の「生きる」は,「探索」を含蓄する。)


    以上のことに留意しつつ,「普遍」の論考を以下の順で行うとする:
      「数学」の押さえ
      「数学の勉強」の普遍の論考
      「数学の教授」の普遍の論考
      「学校数学」の普遍の論考