Up 形式 作成: 2015-10-25
更新: 2016-01-30


    「形式陶冶」の語を,つぎを固定する趣旨で導入した:
       《勉強で身につくのは,勉強の内容ではない》
    内容でないから,「身につく」を言うとすれば「形式が身につく」だというわけである。

    ただし,「形式」のことばは,ただ操作的に用いているのではない。
    実際,「形式陶冶」は,「形式」とつぎのようにつながる:
      「形式陶冶」は,「形式を定めてそれを陶冶する」のようには立たない。
      「形式陶冶」は,「勉強は結果的に形式の陶冶になっている」のように立つ。


    形式とは何か。
    事物A1,A2,,‥‥,An に共通なものを捉えるとき,その捉えたものは形式である。

    1,A2,,‥‥,An で得た形式は,A1,A2,,‥‥,An の他の事物Bにもこれを見るということが起こり得る。
    形式の外延は,それの出自になった事物A1,A2,,‥‥,An を超えるというわけである。
    これが,形式の道具性であり,形式をもつことの意義である。

    形式の認識論的身分は,「概念」である。
    概念をもつことは,形式をもつことである。

    ことばは,概念即ち形式に対応している。
    ことばをもつことは,形式をもつことである。


    数学教育は,形式陶冶である。
    「形式」には,数学になっている形式と,その他の形式がある。

    例えば,数学の学習で忍耐をし,そしてその忍耐を「忍耐」と捉えるとき,この「忍耐」は形式である。
    そして,このときの忍耐が良質であれば,「忍耐」の形式も良質なものが得られている。
    数学教育は忍耐陶冶にもなるというわけである。