Up 形式を感取するカラダ 作成: 2016-02-26
更新: 2016-02-26


    数学の勉強は,<カラダづくり>としての「形式陶冶」である。
    ただし,この<カラダづくり>の内容は,言語化不可能である。

      生活の各種行動は,それぞれ<カラダづくり>としての「形式陶冶」になっている。 ただし,その<カラダづくり>の内容は,言語化不可能である。
      これと意味・位相が全く同じに,数学の勉強がどんな<カラダづくり>であるかは,言語化不可能である。

    「言語化不可能」は,「皆目わからない」ではない。
    数学を勉強してきた者には,「これは,数学の勉強のたまもの」と感じられることが,多々ある。


    「形式陶冶」は,「形式が身につく」がこれのゴール概念である。
    このとき「形式が身につく」は,「カラダの中に形式がつくられる」ではない。
    「形式を感取するカラダがつくられる」である。

      表象主義/認知科学は,「カラダの中に形式がつくられる」である。

    翻って,<形式を感取するカラダ>にとって,環境 (あるいは,カントの「物自体」) は,<形式の潜在性>である。
    ここで,「<形式の潜在性>としての環境」を「<形式を感取するカラダ>にとっての世界」と言い換える。
    即ち,「世界」の概念──「世界は個依存」と言うときの「世界」──が得られる。