Up 「形式陶冶」の語の導入 作成: 2016-01-30
更新: 2016-01-30


    勉強は,《学習テクストの内容をカラダの中に写し取り貯蔵する》ではない。
    食べたものは,消化される。
    カラダは,物を貯め込む器のようなものではない。

    勉強している内容は,カラダに残るものではない。
    翻って,勉強している内容は,カラダに残そうとするものではない。
    では,勉強は,カラダに対し何をしていることになるのか?

    日常言語は,カラダに対し勉強がしていることを,「○○を身につける」と表現する。
    いまこの表現にそのまま乗ってみることにする。
    「○○」には,どんなことばが入るか?

    勉強は,勉強している内容が身につくことではない。
    そこで,「身につくのは内容ではない」を転じて,「形式が身につく」と言うことにする。
    (「内容」の対義語は「形式」である!)

    教育用語に,「能力陶冶」がある。
    勉強は能力陶冶である。
    そこで,「形式が身につく」に「陶冶」のことばを重ねることにする──「形式陶冶」。
    こうして,つぎのようになる:
      勉強は,形式陶冶
      数学の勉強は,形式陶冶


    ここで注意すべきは,「形式」のことばは何ら実体的存在を指すものではないということである。
    形式にはどういうものがあるか?」の問いを立てたくなるが,それは表象主義への落とし穴である。

     註 : もっとも,「形式陶冶」のことばを用いることは,表象主義と紙一重のところに立つことである。

    「形式陶冶」のことばをどのように導入したかを,つぎのようにまとめておく:
    1. 勉強は, 「能力陶冶」である。
    2. 能力陶冶は, 「○○を身につける」である。
    3. 身につくものは,内容ではない。
    4. 内容でなければ,形式である。(「内容」の対義語は「形式」)
    5. こうして,能力陶冶は, 「形式を身につける」である。
    6. 「能力陶冶=形式を身につける」の言い換えとして「形式陶冶」のことばを導入する。
    7. ここでの「形式陶冶」の語導入の趣旨は,「身につくのは内容ではない」を固定することである。