Up 「無用の用」 作成: 2016-02-27
更新: 2016-02-27


    生活の各種行動は,それぞれ,<カラダづくり>としての「形式陶冶」になっている。
    数学の勉強は,「生活の各種行動」のうちの一つである。
    数学の勉強は,<カラダづくり>としての「形式陶冶」である。


    <カラダづくり>を微分の積分で考えてみる
    <カラダづくり>は,小イベントに微分される。
    その小イベントは,それ一つを取り上げれれば,無くても構わないものである。
    <カラダづくり>は,それ一つを取り上げれれば無くても構わない小イベントの積分である。

    それ一つを取り上げれれば無くても構わない小イベントは,ほんとに無くすわけにはいかないものである。
    実際,ほんとに無くすことは,全部を無くすことである。

    <カラダづくり>は,その小イベントを捉えて「これにどんな意味がある」「これが何の役に立つ?」と問えば,「意味はない」「役に立たない」と答えることになるものである。
    <意味>は<無意味>の積分である。
    <用>は<無用>の積分である。
    ──「無用の用」


    数学の勉強は,その小イベントを捉えて「この勉強にどんな意味がある・何の役に立つ?」と問えば,「意味はない・役に立たない」と答えることになるものである。
    数学の勉強の<意味><用>は,数学の勉強の<無意味><無用>の積分である。

    では,<無意味><無用>の積分がなったところの数学の勉強の<意味><用>とは何か?

    普遍学では,この<意味><用>は言語に乗らない。

    この<意味><用>は,<生きる>の内容である。──<生きる>の手段・方法ではない。
    実際,<生きる>とは,こういう積分をすることである。
    <生きる>の内容そのものである<生きる>は,言語に乗らない
    ──言語に乗る<意味><用>は,手段・方法の<意味><用>である。

    数学の勉強の<意味><用>は,<生きる>の内容である。
    <生きる>の内容である数学の勉強の<意味><用>は,言語に乗らない。