Up 数学の勉強 : 要旨 作成: 2016-01-04
更新: 2016-02-27


    「数学教育」は,「数学は必要」を含蓄する。

    数学教育普遍学は,「数学は必要」を立てない。
    「必要」は相対的だからである。
    一方,「数学へのこだわり」を立てる。
    「こだわり」は「生物」の含蓄だからである。
    ──「こだわり」の行動は「探索」であり,「探索」は「生物」の含意である。

    「数学の勉強」の普遍形は,「数学の探索」である。
    「数学教育」の普遍形は,「数学の探索の指導」である。

    「数学の探索」は,探索主体が数学を「趣味」にしている場合である。
    数学教育普遍学が「数学教育」の「数学は必要」に対置するものは,「数学は趣味」である。

     註 : ロジックとしては,つぎのようになる:
       数学教育は,「数学の教授とは何か」がわかった上で,行えることである;
    「数学の教授とは何か」は,「数学の勉強とは何か」がわかった上で,考えられることである;
    「数学の勉強とは何か」は,「数学のよさとは何か」がわかった上で,考えられることである;
    「数学のよさとは何か」は,「数学とは何か」がわかった上で,考えられることである。

    <数学を勉強する>の普遍形を考える。

    <勉強する>は,人の<勉強する>で考えると,本質を捉え損なう。
    <勉強する>一般は,生き物一般で考える。
    生き物一般の<勉強する>は,「探索 (exploratory behavior)」ということになる。


    (1) 探索
    生物は,生活する。
    「生活」は,「生活空間」を含蓄する。
    生活空間は,その生物の「世界」である。
    翻って,世界とは,個体の世界のことであり,個体の生活が機能するところである。

    生物は,環境に対し,自分の世界を定めている。
    世界を定める行動は,「探索」である。
    環境を探索し,自分の世界をつくる。
    探索の中で,世界を適宜調整する。


    (2) 能力陶冶
    生物は,世界の構築を成す。
    これを,「能力」の発現と見る。
    ──このように「能力」の概念を立てる。

    世界の構築は,<調整しつつ構築>である。
    調整の各段階は,「能力の段階」に見立てられる。
    そこで,<調整しつつ構築>は,能力の「進化」である。

    こうして,世界を構築・調整する探索は,「能力陶冶」である。


    (3) カラダ
    探索は,カラダにフィードバックする。
    カラダは,「自分自身を変える (self-referential) カラダ」である。
    「自分自身を変える」は,探索のフィードバックである。

    「能力」は,<探索するカラダ>の能力である。
    「能力陶冶」は,<探索するカラダ>に対する能力陶冶である。


    (4) <数学を勉強する>
    <数学を勉強する>の普遍形は,以下のようになる。

    探索する環境の中に,数学が現れる。
    数学を,探索する。
    この探索は,自分の世界の調整・更新である。
    探索の成果は,世界の進化,カラダの進化である。
    世界・カラダの進化を,「能力の進化」と読む。
    探索は,「能力の進化」が成果ということで,「能力陶冶」である。
    この探索が,「数学の勉強」の普遍形である。


    (5) 形式陶冶
    生活の各種行動は,それぞれ,<カラダづくり>になっている。
    <カラダづくり>は,能力陶冶である。
    そして,能力陶冶は,「形式陶冶」である。
    ここで「形式」の意味は,「身につくのは内容ではない」である。
    (「形式」は「内容」の対義語)

    数学の勉強は,「生活の各種行動」のうちの一つである。
    数学の勉強は,<カラダづくり>としての「形式陶冶」である。


    形式は,風化造形である。
    経験の風化で残る硬い部分,それが形式である。


    数学の勉強は,その小イベントを捉えて「この勉強にどんな意味がある・何の役に立つ?」と問えば,「意味はない・役に立たない」と答えることになるものである。
    数学の勉強の<意味><用>は,数学の勉強の<無意味><無用>の積分である。

    <無意味><無用>の積分がなったところの数学の勉強の<意味><用>は,<生きる>の内容である。
    <生きる>とは,こういう積分をすることである。

    <生きる>の内容そのものである数学の勉強の<意味><用>は,言語に乗らない。
    実際,言語に乗る<意味><用>は,手段・方法の<意味><用>である。
    数学の勉強の<意味><用>は,<生きる>の手段・方法ではなく,<生きる>の内容である。


    (6) 探索の欲求
    ことばの惰性として,「探索」に対し「探索の動因」の概念が立つ。
    実際には,「探索」は「生物」の含意であるから,「動因」を立てるのはロジックとして過剰である。
    しかし,ことばの使用上,「動因」の概念は便利なことがある。
    本論考も,この限りで,「好奇心」「知的欲求」の類のことばを使用するものとする (実際には使用しないかも知れないが)。


    (7) 個性
    探索は,「探索する・しない」の二値ではない。
    探索には,様相がある。
    探索は,個依存である。

    <数学を勉強する>は,個依存である。
    個性として,<数学を勉強する>への「向き・不向き」「関心・無関心」「好き・嫌い」が現れる。

    数学は,勉強しなければならないものではない。
    また,勉強しなくてもよいものではない。
    数学は,中立である。


    (8) 数学道
    <数学を勉強する>は,長く続けることで,果実と見(まみ)える。
    成果は,忍耐に対する成果である。
    生半可な<数学を勉強する>は,<数学を勉強する>ではない。 ──そもそも続かない。
    <数学を勉強する>は,修行である。
    数学は,修行道である──「数学道」。

      勉強には,「物見遊山」と「道」がある。
      そして数学の勉強の場合,「物見遊山」は無理である。

    「数学のよさ」を唱える者は,併せて「数学は修行道」を説くことのできる者でなければならない。
    「数学は修行道」を説けることは,数学教育・数学教育学に携わる者に必須の能力・資質である。


    (9) 「数学を身につける」の失
    「数学教育」「数学教育学」は,「数学を身につけることは,よいこと」を前提にするものである。
    「数学を身につけることは,よいこと」は,「数学教育」「数学教育学」の無意識である。

    ひとは,<数学を身につける>に対しては専ら得を考える。
    しかし,何かを身につけることは,これまで身につけてきた他のものを損なうことである。
    この先身につけるはずだったものを,失うことである。
    <数学を身につける>とは,こういうことである。
    <数学を身につける>は,得失で考えることである。

    得は考えやすいが,失は考えにくい。
    そこで,いま強いて失を取り上げるとする。